●スーラト
アジア インド AD
インド,グジャラートの都市。アラビア海のキャンベイ湾に注ぐタプティ河の河口に外湾としてスワリーがあり,スーラトはそこからややさかのぼったところに位置する。その起源は不明で,15,16世紀には,グジャラートのムスリム政権下にあった。ムガル帝国の第3代皇帝アクバル Akbar(在位1556〜1605)は,グジャラートの豊かさとスーラト市の重要性に目をつけ,グジャラートに遠征軍を送り,ムガル帝国の一部に組み込んだ。スーラトは,帝国下の一州グジャラートの一県(サルカール)に編入され,州都アーマダーバードから管理されることとなった。しかし,ムガル支配は,スーラトの特別な位置に留意して,スーラトの長官および城砦司令官その他のスーラト市の重要な役人を,直接,皇帝が任命して,首都アーグラから派遣した,ポルトガル人が西インドに来航してまもなく,スーラトは,カーティアワール半島のデュー,あるいはダマンなどの都市とともに貿易都市として栄えるようになった。とくに,17世紀に,ポルトガルの海上勢力が衰退したのち,イギリス人・オランダ人は東インド会社を組織して,スーラトに商館をおいて,インド商人バニアンと貿易を行った。16〜17世紀に栄えたスーラトは,18世紀半ばに入ってからは貿易都市としては沈滞していく。それに代わったのが,西インドでは,イギリスの拠点ボンベイである。スーラトは,その人口約15万人〜20万人であったが,1630年初期のグジャラート一帯の飢饉で人口は半減したといわれている。さらに,1657年,ムガルの皇位継承戦争中の略奪,1664年,1670年のシヴァージーの軍の略奪に遭っている。また,ムガルの役人が,そのつど,ヨーロッパ人商人とインド人商人との取り引きに介入したこともあった。しかし,スーラトには,ヴィルジ=ヴォーラやモーハンダス=パレクのようなインド人大商人,あるいはロスタムジー=マネクジーのようなパールスィー商人が本拠をおき,アラビア人・アルメニア人なども来航して,当時の国際的大都市として繁栄し,インド内の商業網に大きな影響を与えていた。