●相撲 すもう
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円形の土俵の上で,押し・寄り・投げなどの技によって勝負を争う格闘技。相手を倒して土をつけるか,土俵の外に出すことによって勝敗が決まる。【神事としての相撲】相撲は日本の“国技”とされている。その起源は『古事記』に著されている“力くらべ”である。ここでは建御雷神(たけみかずちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)が出雲の伊那佐の浜で“力くらべ”をし,国ゆずりを行ったとされている。また,『日本書紀』には,出雲の野見宿禰(のみのすくね)と大和の当麻蹶速(たいまのけはや)が対戦したという記述がある。このころの対戦は,突き・けりなども採用され,相手が降参するか,ときには殺すまで戦うような乱暴なもので,古代国家の建設や民族統合を裁定する神占いの一種であった。5世紀ごろから,徐々にルールが定められたようで,雄略天皇・皇極天皇・持統天皇などが相撲を見たという史料から,相撲が観賞の対象になりつつあったことがうかがえる。
【節会相撲】728年(神亀5)聖武天皇は,宮中に相撲節という儀式を制定し,国家的行事として“節会相撲”(せちえずもう)が皇居で催されるようになった。節会相撲は,およそ七夕(たなばた)の時期を中心にして開催され,国家安泰・五穀豊穣などを祈る年占いと考えられていた。
きまり手には,からみ投げ・内掛け・外掛け・そり・はたき込み・引き倒し・首投げ・渡し込みなどがあり,判定が微妙な場合には,「論」と呼ばれる“ものいい”の制度があった。節会相撲は,皇室の勢力が衰えるとともに衰退し,保元・平治の乱ののち12世紀の後半には断絶してしまった。
【武家相撲】節会相撲のほかに,相撲は一般人の娯楽,武人のたしなみとしても盛んであった。農民のあいだでは,収穫の吉凶を占ったり,豊年を感謝したりするときに相撲が行われた。武士のあいだでは,体力の鍛錬のために相撲が大いに奨励された。『吾妻鏡』には,1189年(文治5)源頼朝が鎌倉八幡宮に流鏑馬(やぶさめ)と相撲を奉納したという記述がある。あまりに相撲が盛んになり,鎌倉市中で辻相撲(つじずもう)が行われて,騒動や傷害事件がおきたため,一時的に禁止されたこともあった。
室町時代以降,奉納相撲や宮相撲が盛んになり,相撲は庶民の手に徐々に移っていったが,戦国時代の大名には愛好者が多く,織田信長・豊臣秀次などが有名である。なお,土俵の誕生は,戦国末期1550〜1560年代ころといわれている。
【勧進相撲】江戸時代に入って相撲を職業とする集団が発生し,勧進相撲が行われるようになった。勧進相撲とは,戦国乱世で焼失した,神社・仏閣の再建,修復費を興業によって集める寄付相撲のことで,初めは町奉行,のちには寺社奉行が,管理・興業許可を受けもっていた。相撲が公許興業になったことから,審判制度・番付編成・土俵の設置などの整備が進められるようになった。また相撲好きの大名によって力士抱え制が生まれ,強剛力士が輩出した。
寛政年間(1789〜1800)には,空前の寛政相撲黄金時代を迎え,ほぼ現在と同じ形の相撲が完成された。相撲界を統轄する地位を吉田司家が獲得し,“横綱”制度が生まれたのもこのころであった。
【明治以降】1909年(明治42)に両国に“国技館”が建設されたことによって,天候にかかわらず相撲興業が可能になり,相撲人気に拍車をかけた。同年にはアマチュア力士による第1回の関西学生相撲大会が開催され,以後,プロ・アマともに相撲は盛んになり,終戦直後の沈滞期をはさんで競技として練成され,さらに充実し今日の興隆にいたっている。1985年(昭和60)年には1950年に建てられた蔵前国技館から両国の新国技館に再び本拠を戻した。
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