●炭焼 すみやき
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木炭が燃料や暖房に使用されはじめたのは江戸時代に入ってからで,全国的に広まったのは明治以後のことである。この動きには,室内に畳を敷くという住宅・居住様式の形成や交通路の整備により木炭輸送の便がはかられたことが関与していた。それ以前の用途は,鍛冶屋や鋳物師など金属加工上の利用を中心にし,九州地方で炭をイモジと呼んだこともその名残りといえよう。貧しくも純心な炭焼が女房に教えられて金山を発見し長者になるというモチーフをもつ炭焼長者の昔話も,鋳物師によってもち伝えられたものと考えられている。またその一端は,中国山地に集中して見られたタタラと呼ぶ砂鉄製錬施設を使って製鉄を行った集団が,大量の木炭を必要とし,炭焼や鍛冶屋たちとともに山内生活を送ったことにも示されている。木地屋も自ら使用する刃物を鍛えるために自分で炭を焼いたという。こうした鍛冶炭をつくる方法はいたって簡単なものだったようで,今に伝えられている方法は,地面を少し掘るばかりでカマを設けず,ここに木を積み上げて火をつけ,頃合をみはからって土をかけて火を消して炭を得たというものである。一方,江戸時代になると諸藩では賦課として焼かせた炭を藩の手で消費地である都市に出して売却したり,木炭問屋に特権を与えて冥加金をとり,藩財政をうるおすことも多くなり,その結果木炭の品質競争も見られるようになって生産技術の進歩と伝播がはかられた。たとえば,元禄年間に評判をとった紀州の備長の技術が日向・薩摩・土佐・備中などに伝えられたのもその一例である。明治から大正にかけては,炭焼は山村の副業的生産としてとくに奨励され,役所が技術講習会を開催したり生産組合が結成されるなど,技術の向上と普及がいちだんと進んだ。しかし家庭用燃料の変革などにより,昭和30年代ごろから需要が減り,急速に姿を消した。木炭には鍛冶炭のほか,黒炭と白炭とがある。黒炭は火がつくとすぐに空気を遮断してつくるので堅いのに対し,白炭はよく焼くので軟く黒炭よりも上質とされるが,火もちは悪い。炭ガマは山中に設けることが多い。炭木の伐採・集材に便がよく,水場に近いなどの条件を考慮して場所を選定する。カマ近くには,木炭の保存や俵詰めの作業などをする炭焼小屋をつくる。ここに寝泊りをする場合も多かった。炭ガマはまず地面を適当な大きさに丸く掘り,火に当たっても割れない石を積み,そのなかにすきまなく炭木を立ておおよそのカマの形をつくってから,全体に赤土などの泥を塗って固くしめる。こうしてから火を入れ,なかの木を炭に焼いてカマをつくった。ハチなどと呼ぶカマの天井をつくることと,ダイシアナとかショウジと呼ぶ煙出し口をつくる技術が最もむずかしいとされた。ハチができ上がると餅をつき,カマづくりを手伝ってくれた人を呼んで飲食をしてハチアゲの祝いをする所もあった。ダイシアナと呼ぶのは,昔炭焼が炭を焼いてもうまく焼けずみんな灰になってしまうことを悲しんでいると,弘法大師がこの穴をあけることを教えてくれたからだといい,このとき炭焼が躍り上がって喜んだので,カマの前庭をオドリダンとかオドリニワというのだと伝承している。これはもともと大子信仰と関係があり,大子が弘法大師に付会したものといえる。この煙出しから立ち昇る煙の色とにおいとで,炭の焼け具合を判断した。炭焼のあいだには,死や出産時には山に入らず精進する,猿ということばを忌む,汁かけ飯を嫌うなど,ソマやコビキと共通する信仰伝承がみられる。また山ノ神信仰も共通する側面が強い。共有山や共同して払い下げた官山を炭に焼くほか,親方が原木を買い,請け負わせて焼かせる焼き子慣行もみられた。夫婦で,あるいは家族をあげて遠方の山に小屋をかけて入り込み,親方から食糧を届けてもらい,炭を焼く生活を送る者も少なくなかった。
〔参考文献〕樋口清之『日本木炭史』1960,全国燃料会館(抜萃.復刊,1978,講談社学術文庫)
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