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●スペイン内戦 スペインないせん

ヨーロッパ スペイン AD1936 スペイン共和政

 1936〜1939 1936年2月総選挙で人民戦線が48.7%の得票率で勝利した。右派は46.2%で,スペインは左右両陣営に二分された。第二共和制の初代首相アサーニャは,左翼共和党共和同盟などから成る内閣を組閣した。ブルジョワ政党にとって革命はすでに完了していたが,アナーキストや社会主義者にとっては革命はこれからであった。このために,あちこちで教会の焼打ち事件が続発し,南部の農民は遅々として進まぬ農地改革に業を煮やして土地の占拠を始めた。2月の総選挙から6月まで12万1,500人が重傷を負ったり殺害されたりして,340回ゼネストが行われた。7月12日ファシストの一団が警官を殺し,その報復として翌日右翼の政治家ロルボ=ソテロが暗殺された。

 フランコ将軍らの軍首脳部は,政治的アナーキーの収拾を口実に,カナリア諸島でクーデタを宣言した。2,3日のうちにスペインは二分された。カタルーニャ・バレンシア・ムルシア・アンダルシア東部カスティリャなどの中央部,アストリアス・バスクなどの北部は,人民戦線政府に忠実であった。ガリシアからアラゴンにいたる北部の大部分・アンダルシア西部・モロッコはフランコの手中に陥った。トレードは人民戦線の領域の孤島として,フランコが掌握した。

 マドリードでは,ラルゴ=カバリェロが新たに内閣を組閣し,プリエトネグリンアルバレス=デル=バヨなどの優れた社会主義者が入閣した。彼らの背後にはソ連の武器援助国際義勇軍があった。フランコ軍は,ドイツ・イタリアの武器・兵士などの援助を得て,9月末には本土の3分の2を占領し,首都マドリードを半ば包囲するにいたった。マドリードは,すばやく組織された民兵と国際義勇軍の勇敢な守備のために,容易に陥落しなかった。

 8月レオン=ブルムフランス人民戦線政府は,スペイン内戦に対する不干渉の提議を行い,9月ドイツ・イタリア・ソ連を含むヨーロッパ諸国がロンドンに不干渉委員会を設立した。しかし,ドイツ・イタリアはこれを無視し,11月にはフランコ政府を認知し,援助を増大した。

 10月,人民戦線政府はバレンシアに移り,大量の金をソ連に送って武器援助を要請した。ソ連のみが他国のコミュニストに義理をたてて,スペインに戦車・飛行機・軍人などを送った。

 1937年には,フランコ軍と人民戦線軍の境界線は,ピレネー山脈の中央から南に向かいテルエルに達し,そこから西にそれてグワダラマ山脈に伸び,マドリードを一周してエストレマドゥーラにいたり,メセータ(中央高原)南部をよぎってグラナダの南部で終わった。しかし,1937年末人民戦線軍はテルエルを奪還し,一時的勝利を収めた。ソ連の援助を受けたラルゴ=カバリェロ政府は,民兵の集団を正規の軍隊に再編制することに成功したからである。

 ソ連をバックに,スペイン共産党は勢力を増し,軍の主導権を握り始めた。ソ連の秘密警察チェカは,アナーキストやトロツキー派といわれるカタルーニャ統一社会党を迫害しはじめた。1937年5月バルセロナでは,内戦中の内戦といわれるアナーキストの反乱がおこった。共産党の圧力に屈しないラルゴ=カバリェロは辞職を強いられ,ネグリンが新たに首相に就任した。

 1938年,人民戦線軍の敗北は明らかになった。3月フランコ軍はテルエルを占領し,エブロ河流域を前進してカタルーニャに達した。フランコはカタルーニャ州自治政府を廃して中央政府の管轄下に置いた。激怒したカタルーニャ人は,勇敢にトルトサを守備したので,戦況は再び膠着状態に陥った。1939年1月バルセロナの陥落を機に,武器の不足に悩む人民戦線政府内部には,ネグリンや共産党の抗戦派と,アサーニャの降伏派が分裂し,3月反共クーデタがおきてフランコ軍に降伏した。およそ25万人がピレネーの国境を越えて,フランス・北米・中南米などに亡命し,一部はその地の革命に参じた。

 スペイン内戦は,世界史的には第二次世界大戦の前ぶれであった。また,全世界の知識人・労働者がファシズム打倒のために結集したために,歴史的に大きな意味をもつ。

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