●スペイン継承戦争 スペインけいしょうせんそう
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スペイン王カルロス2世に子がないため,フランス王ルイ14世が孫のアンジュー公を王位につけようとした。そこでフランスがさらに強大化するのを恐れたドイツ皇帝・オランダ・イギリスなどが大同盟を結んでこれに対抗し,その結果西ヨーロッパ全体をまきこんだ国際戦争となった。これが1701〜1713年のスペイン継承戦争である。【ルイ14世の侵略戦争】ルイ14世は,フランドル戦争(1672〜1678)・アウグスブルク同盟戦争(1689〜1697)と引き続いて侵略戦争を行っていたが,スペイン継承戦争こそ最後の最も果敢な侵略戦争であった。1700年11月スペイン王カルロス2世が後継者を残さず死んだとき,その遺言に記されていた王位継承著は,列国の期待に反してルイ14世の孫アンジュー公であった。これはルイ14世がカルロスの生前中にスペイン宮廷中に働きかけて画策した結果だと思われるが,とにかくこの遺言を盾としてルイはアンジュー公をフェリペ5世としてスペイン王位につけ,スペイン全領土を相続させた。なにしろルイの登場でブルボン家のフランスがヨーロッパ国際政局を動かす大国に成長した17世紀末のことである。このフランスが,多くの植民地を有するスペインを事実上併合すればどういうことになるか。このため列国はこぞってアンジューのスペイン王位継承に反対した。もっともイギリスやオランダは,ドイツ皇帝レオポルド1世の子がスペイン王を継承して,オーストリア(皇帝)とスペインが合体することにもやはり反対で,スペイン領土の分割などを主張していた。それでも,事態はルイの孫フェリペ5世の継承となったために,イギリス・オランダもオーストリアと結んで連合軍をつくってルイに対抗し,1701年9月から戦争となった。連合軍には後さらにプロイセン・ポルトガルが参加したため,事実上ルイ14世のフランス一国に対して列国が大同団結して対峙する結果となった。戦闘はイタリア・ネーデルラント・ドイツなど各地で行われたが,なかでも主なものは,ブレンハイムの戦い(1704)・オステンド攻略・ラミリーの戦い・トリノの戦い(1706)・マルブラケの戦い(1709)で,いずれも連合軍側が連勝した。
【アン女王の戦争】スペイン継承戦争はヨーロッパ内での戦争にとどまらず,植民地アメリカ大陸でも展開された。これをときのイギリス国王の名をとって「アン女王の戦争」という。それは主としてフランスとイギリスとのあいだの植民地争奪戦であった。フランスはこの戦争中インディアンの土地奪回闘争を利用してニューイングランドに侵入したが,反対にイギリス側はフランス領カナダヘ侵略を試み,1710年アカディア地方を占領した。だが1711年のイギリス軍のケベック遠征は失敗に終わった。ルイ14世は,イギリスでの名誉革命に反対で,革命以前からの国王ジェームズ2世を支持していたが,ジェームズの死後はその子ジェームズ3世を擁立して,ウィリアム3世やアン女王と敵対していた。したがってフランスとイギリス両国にとってスペイン継承戦争は,ルイ14世のブルボン王朝と名誉革命政権との対決という性格があった。その上さらに,第二次英仏百年戦争の名で知られる両国間の植民地争奪戦という性格もあったがために,この両国にとっては,他の参戦国とは別の意味で,きわめて重要な意義をもつ戦争であった。実際この戦争を終結させたユトレヒト講和条約では,フランス・スペインが合同しないことなどヨーロッパ関係の取決めのほか,イギリスがスペインからジブラルタル・ミノルカ島を,フランスからハドソン湾地方・ニューファウンドランド・アカディア地方などを得て,重商主義植民帝国としての地位を明確にすることとなった。この条約はまた,18世紀のヨーロッパの国際関係を規定したものとしても知られている。
〔参考文献〕浜林正夫『イギリス名誉革命』下 1983,未来社