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●スペイン革命 スペインかくめい

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 1923〜1930年までプリモ=デ=リベラによる軍事独裁が続いた。1898年代と呼ばれる知識人の世代の追随者たちは,軍隊・教会・大土地所有者・国王などの古い秩序に批判的であった。彼らはプリモの言論の自由の弾圧に強い不満を抱いていた。地方自治の認められないカタルーニャでは,左翼のマシア大佐がフランスから攻撃を仕掛けてカタルーニャの独立を実現しようと画策していた。アナーキズムは過激化し,労働者と警察の激突が頻発した。1930年2月世界経済の不況のあおりを受けて,プリモ=デ=リペラは辞任し,パリに亡命した。ベレンゲル将軍がその後任となったが,反君主制派,ブルジョワ共和主義者,カタルーニャの左翼と社会主義者は,1930年8月サン=セバスチァンに集まって,君主制を打倒し共和制を成立されるための革命委員会を結成した。そこで,サン=セバスチァン協定として知られる共和制宣言が発せられ,「君主制権力の基礎である要塞を倒し,憲法議会に代表される主権在民の原則にもとづいて共和制を建設する決意である」と国民に宣言した。

 君主制に反対する運動は軍内部にも反響を呼び,アラゴンのハカでフェルミン=ガラン大尉らの若い軍人がクーデタを宣言した。彼らはサラゴサまで前進したが,局地的反乱にとどまり銃殺された。マドリードの空軍基地でもこれに並行して反乱がおこり,首謀者は共和制の宣言文を発表したが,政治的扇動を行った理由で逮捕された。

 ベレンゲル将軍が遂に,憲法にもとづいて議会を召集すると発表したとき,民衆の抗議の声が巻きおこり,1931年2月後は辞任した。ついで海軍の提督アスナルを首班とする内閣が成立し,4月12日に地方自治選挙を行うことを決定した。

 一方,ハカの反逆者と革命委員会の裁判においては,彼らが違法行為を行ったというなら独裁制が合法的であることを証明せよ,と弁護人や被告が主張し,国王の独裁制支持の罪も問われた。一般民衆もこの裁判に関心を寄せ,王制か共和制かの議論が全国的に行われた。

 1931年4月12日の選挙は,王制か共和制かを決定する国民投票となった。農村部では君主制支持者が多かったが,マドリード・バルセロナをはじめとする大都市では,共和制を求める諸党派が圧勝した。市役所などの公共建物は民衆に占拠され,共和制の旗がひるがえった。憲法の規定にもとづき,都市部の大勝は国家の政治体制の決定に十分な効力をもっていた。

 内閣は政権交替の準備を始め,アルフォンソ13世は「自分は国民の愛を失っていたことを知った」という声明文を発表し,正式に退位はせずに,マドリードを出てカルタヘナ港に向かった。

 4月14日,サン=セバスチァン協定にもとづいて,共和革命委員会は臨時政府を組織し,アルカラ=サモーラが首相となった。国中が熱気に包まれた一種の無血革命だった。平和主義と合理主義による,従来の軍部クーデタと教会の前近代主義に対するスペインの知性の勝利であった。オルテーガ=イ=ガセット・ウナムーノ・マラニョン・アルタミラなどの知識人は共和制を歓迎し,多くの作家や学者が外交官などの公職につき,不十分な教育制度の改正に乗り出した。

 1931年6月28日,憲法制定議会の総選挙が行われた。概算で右翼諸党派が80議席,中間派が100議席を得たのに対して,左翼諸党派は社会労働党120,左派共和党80,右派共和党30の議席を得た(実際に政権の座についた人々の大半は,1923年の憲法主義者であった)。アルカラ=サモーラ首相と内務相ミゲル=マウラは,君主制に仕えたリベラルな閣僚だった。フェルナンド=デ=ロス=リオスのような大学教授,文学者マヌエル=アサーニャなども参加していた。

 教会についての条項に反対したアルカラ=サモーラと,ミゲル=マウラは辞職し,結局左派共和主義者アサーニャが第2共和制の首相に,アルカラ=サモーラは大統領に指名された。スペイン第二共和制の憲法は,離婚の自由を認め,教育を教会から分離し,貴族制を廃止し,カタルーニャの自治を認めるなど,スペイン史上画期的なものであった。