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●スペイン

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 イベリア半島の大半を占めている国家。

【地勢・民族】スペインは,わが国ではフラメンコ闘牛の国として知られているが,1950年代,1960年代にめざましい経済成長をとげた。北西部,フランスとの国境にはピレネー山脈がそそりたち,“ヨーロッパはピレネー山脈で終わる”,あるいは“アフリカはピレネー山脈に始まる”ということばにしばしば象徴されるように,独自の文化を育てきた。北部にはカンタブリア山脈が東西に延び,南部にはシェラ=モレーナ山脈シェラ=ネバダ山脈が走っている。これらの山脈にはさまれたメセータと呼ばれる標高約600〜700mの高原が,国土の中心部を占めている。さらに,メセータの中央を横切るシェラ=デ=グレードス山脈シェラ=デ=グワダラマ山脈が,メセータをより高い北部とより低い南部に二分している。平野はわずかに南西部のグワダルキビル川流域と,北東部のエブロ川流域に見られるにすぎない。その他,地中海に注ぐドゥエロ川タホ川グワディアナ川などがあるが,いずれも深い峡谷を流れ船舶の運航を不可能にしている。スペインは50の地方(プロビンシア)に分けられる。そのうちの二地方はカナリア諸島,一地方はバレアレス諸島に属する。気候は地方によって異なる。一般に大西洋岸・カンタブリア・ピレネー山脈地方は気候温暖で雨量も多い。しかし,南部地中海岸からカタルーニャにかけては,冬は温暖・湿潤,夏は乾燥した地中海性の気候である。雨の少ない内陸地方は,夏・冬の暑さ・寒さはとりわけ厳しい。全土にわたって年間を通じての雨量は600ミリに満たず,悩みの種となっている。皮肉なことに,山岳地帯で雨量が多く平野では少ない。国名は,前1000年前ごろに渡来したフェニキア人が,イベリア半島をSpanと呼んだことに由来する。これが後にローマ人によって Hispania となり,さらに,Espana と変わった。その意味は「兎の国」あるいは「遠方の地」であったとする二通りの説がある。スペイン人はさまざまな人種の混血から成っている。イベリア人(名前はエブロ川に由来すると考えられる)がスペイン最古の住民で,前3000年ごろから定着していた。北アフリカのベルベル族とかかわりがあると思われるが,明確なことはわからない。前1000年ごろ渡来したフェニキア人は,スペイン最古の都市(現在のカディス・マラガ・セビーリャなど)を建てた。ケルト人は前950年ごろピレネーを越えてスペインに入り,従来の北アフリカ・中近東出身の先住民族に初めてヨーロッパ人の血を与えた。ケルト人はイベリア人と混交してケルト=イベリア人となり,スペイン人の中核をなした。前6世紀ごろギリシア人,続いて北アフリカからカルタゴ人が渡来した。ローマ帝国は前3世紀カルタゴ人を駆逐してスペインを占領し,7世紀にわたってスペインを支配した。5世紀の初めにゲルマン民族大移動の第一波が押し寄せた。そのなかでも最も強力なのは西ゴート族である。民族混血の最後の章を飾ったのは,ムーア人(アラブ人と北アフリカ人から成るイスラーム教徒)で,711年にスペインに侵入した。ムーア人は,グラナダのアランブラ(アルハンブラ)宮殿などの優れた文化遺産のほかに,いちじく・砂糖きび・米・綿などの農産物をもたらした。またスペイン語はアラビア語におよそ4,000の単語を負うている。現在でも南部のアンダルシア地方では,住民の顔つき・風俗習慣・音楽などに明らかにムーア人の影響がうかがわれる。民族の混交の歴史的プロセスのなかで,アイデンティティをひたすら守ってきたのは,ピレネーの西に住むバスク人である。彼らの言語はインド=ヨーロッパ語とはかかわりがなく,その起源は不明である。現在スペインにおいては,標準語であるカスティリャ語のほかに,プロヴァンス語に近いカタルーニャ語バレンシア語ガリシア語バスク語などが話されている。カタルーニャとバスクは,独立の気運が強く,たえず地方自治の強化を政府に迫っている。とりわけバスクのナショナリズムは激化し,ETA(自由な祖国バスク)という独立グループを生み出し,政府の頭痛の種となっている。人口はおよそ3,700万人と推定される。その半数以上が都市に集中し,マドリードとバルセロナの二大都市の人口は100万を超える。

【ムーア人の支配】ローマ帝国支配前の先住民の歴史については,概観で述べたとおりである。前206年第二次ポエニ戦争によって,ローマはそれまでスペインを支配していたカルタゴ人を追放し,その後約7世紀にわたるローマ帝国の支配が始まった。自由を愛する先住民族は激しく抵抗し,前2世紀にはヌマンシア戦争ルシタニア戦争などにおいて,叙事詩に残るようなドラマチックな武勇伝を生んだ。ローマの支配下に置かれたイベリア半島はヒスパニア(スペイン)と呼ばれるローマの一行政区画となった。スペインはローマ帝国の主要な地方となり,ヒスパリス(セビリャ)・コルドゥバ(コルドバ)・ガディス(カディス)などの都市は繁栄し,セネカ父子など史上に名を残す文化人が多数輩出した。キリスト教はローマ帝国時代にスペインに導入され,4世紀にはほぼ全土に及んだ。このころローマは東と西に分裂し,スペインは西ローマ帝国の一部となった。5世紀にゲルマン民族が侵入したが,そのなかでも最も強力な西(ヴィジ)ゴート族がイベリア半島の大部分を征服し,トレードに首都を築いた。西ゴート族の国王は選挙によって貴族のあいだから選ばれるために権力争いが絶えなかった。710年西ゴート王ロドリーゴに対して反乱をおこした貴族が,北アフリカのムーア人に援助を乞うた。このため711年ウマイヤ朝のムーア人がスペインに侵入し,728年には北部山岳地方を除いて西ゴート王国を征服した。このころムーア人の信奉するイスラーム教は,キリスト教の勢力をはるかに凌いでいた。アブドゥール=ラフマーン3世は,929年自ら西カリフ国の太守となって統治しバグダードに対抗した。その首都コルドバは多数の壮麗な寺院(モスク)と城塞(アルカサール)を誇った。彼らは古代ギリシア・ローマの文明を,トレードの翻訳学校を通して広くヨーロッパに伝えた。

キリスト教王国】ムーア人の支配は,勢力争いのために11世紀に弱まり,小君主国(カイファ)に分裂した。北部山岳地方の西ゴートをはじめとするキリスト教徒は,8〜11世紀にアストゥリアス=レオンアラゴンカスティリャなどのキリスト教王国を建設し,国土再征服運動を始めていた。中でもカスティリャが最も強力であった。国土再征服運動の英雄エル=シッドカスティリャの人である。12世紀に入って,キリスト教王国の諸国王は,国民の支持を強化するために都市を建設し,その代表から成る身分制議会(コルテス)を召集したが,その実権は制限されていた。1143年には,ポルトガルはカスティリャから独立した。このころ,アラゴンナバルラカスティリャが存在したが,13,14世紀を通して最も強力だったのはカスティリャである。13世紀に入って,カトリック教会はカラトバなどの宗教騎士団を創立し,キリスト教諸国の国土再征服運動(レコンキスタ)は十字軍の使命感をもって一致団結した。1284年には,フェルナンド3世がレオンとカスティリャを統一して,コルドバ・セビーリャをムーア人から奪還し,残るイスラーム教徒の拠点はグラナダのみになった。

【統一と大航海】1469年のカスティリャのイサベルとアラゴンのフェルナンドの結婚は,強力な統一国家の建設をめざすものであった。彼らはユダヤ人とイスラーム教徒が,スペインの統一の邪魔になると考えて,異端審問制を設立した。1492年,グラナダは遂に再征服され,イスラーム教徒とキリスト教に改宗しないユダヤ人は放逐された。同じ年イサベルの援助を受けたコロンブスがアメリカ大陸を発見した。その後約50年にわたって,スペインの探検家や兵士が新大陸を訪れた。1513年,バルボアは中央アメリカを横切って初めて太平洋を発見した。1521年コルテスはメキシコのアステカ王国を,1531年ピサロはインカ帝国を,それぞれ征服した。新大陸からの金銀の流入によって,富み栄えたスペインはヨーロッパや北アフリカにも領土を拡張した。1516年フェルナンドとイサベルの孫にあたるハプスブルク家のカルロス1世が王位についた。彼はスペイン本国とアメリカ大陸・北アフリカの植民地のほかに,ネーデルラント(ベルギー・ルクセンブルクを含む)も所有していた。ハプスブルク家は,神聖ローマ帝国を治めていたから,カルロスは1519年からその皇帝(カール5世)をも兼ねることになった。宗教改革とは無縁であったカトリック国スペインでは,1539年カトリックを中南米に広める目約で,イグナシウス=ロヨラがイエズス会を創設した。

【盛期】カルロスの息子フェリペ2世の時代に,スペインは黄金世紀と呼ばれる最盛期を迎えたが,同時に衰退も早かった。セルバンテスカルデロン・ローペ=デ=ベーガなどの文学者,エル=グレコベラスケスなどの画家が活躍したのはこの時代である。フェリペ2世はマドリードを首都と定めた。1581年彼はポルトガルの王位も兼ね,ポルトガルの植民地をも支配した。しかし同じ年,ネーデルラント独立を認めねばならなくなった。中南米から流入する富はスペイン本国の莫大な軍事費をまかなうには足りなかった。1588年オランダを支持するイギリスに攻撃をしかけたカトリック国スペインの無敵艦隊(アルマダ)が,プロテスタントの国イギリスに敗れ海上権を奪われたとき,スペインの没落は決定的なものとなった。1598年に即位したフェリペ3世の時代,ユダヤ人とモリスコ(キリスト教に改宗したムーア人)の迫害は再び激化し,労働人口に打撃を与え,農業や絹・紙などの生産は衰えた。

【スペイン継承戦争】1640年ポルトガルは再び独立した。スペインの政治的・経済的衰退は,ハプスブルク家最後の君主カルロス2世の代になって一段と顕著になった。カルロスは後継者を残さなかったので,後継者をめぐって,ブルボン家とハプスブルク家の争いがおこった。カルロスはフランス王ルイ14世の圧力に屈し,その孫のアンジュー伯フィリップフェリペ5世として王位につけた。この決定に,フランスの勢力の拡大を恐れるイギリス・オランダが反対したので,ヨーロッパはスペイン継承戦争に突入した。フランスは敗れ,フェリペはヨーロッパの領土をすべて失った。18世紀スペインを統治したブルボン王朝は,税金を軽減し,道路を建設し,図書館やアカデミーを設立して国力の回復をめざした。とりわけ啓蒙専制君主といわれるカルロス3世は,イエズス会士を追放し異端審問所の活動を停止しスペインの近代化に寄与した。

【ナポレオンとその影響】1808年ナポレオンは,スペイン国内の王位をめぐる争いにつけこみ,弟のジョゼフ=ボナパルトをスペイン国王とした。5月2日スペイン国民は武器を手に蜂起しフランス軍と戦った。ゲリラということばは,このときの民衆の戦いに由来しその後普及した。1812年カディノスに議会が召集され,進歩的知識人の子で主権在民の原則にもとづく憲法を制定した。19世紀の歴史は,この1812年憲法の精神を守るための戦いの歴史といえよう。1814年クーデタによってフェルナンド7世の王政復古が実現し,1812年憲法は無効になった。しかし,フェルナンド7世の治世は失敗の連続で,君主主義者のあいだでも不満が募っていた。たまたま中南米の独立運動の鎮圧のためにアンダルシアに軍隊が結集されていたが,彼らはフェルナンド7世に反乱をおこして1812年憲法を復活させた。1820年から1823年までの立憲君主制は再び自由主義者の弱体ぶりを露呈した。フェルナンド7世は,1823年フランスの軍隊の派遣を依頼し,1812年憲法を再び廃棄させたのである。1825年までにスペインはキューバ・プエルト=リコ・フィリピン・グアム・アフリカのいくつかの植民地を除いたすべての植民地をすでに失っていた。王党派保守派はフェルナンドの弟カルロスを中心に,カルロス党を設立した。1833年フェルナンドの娘イサベルが即位したが,これに反対してカルロス党カルリスタ戦争をひきおこした。1835年主要都市は革命評議会を結成してブルジョワ革命を行い,制限選挙・二院制・国王拒否権などを定めた1837年憲法を制定した。1840年,1837年憲法を掲げる進歩派はエスパルテロ将軍のクーデタによって政権の座についた。だが1842年過激化した民衆の蜂起を弾圧したために,エスパルテロは挫折し,1843年ナルバエス将軍のクーデタによって政権は穏健派に移った。しかしナルバエスカシケ(地方顔役)に選挙を管理させるなどの腐敗政治を行ったので,再びオドンネル将軍がクーデタをおこした。オドンネルは自由主義の中道をめざす自由主義連合をつくり,1858年から1863年まで政権の座におさまった。その後政権は再び保守派に移行したので,進歩派が1863年にクーデタをおこしイサベル2世を退位させた。彼らは1869年憲法を制定したが,国家と教会の分離など極端な政策を打ち出したので失脚し,1870年イタリアのサヴォクのアマデオ公を国王に迎えた。しかし国王支持派の勢力が弱かったためにアマデオは4年で退位した。

第一共和政】その後共和派が勢力を握り,1873年第一共和政が成立した。しかし,南部過激派の反乱・カルリスタやキューバの反乱で挫折し,再び政権は保守派に移った。1885年以後保守派のカノバスと進歩派のサガスタが平和裏に二大政党による政権交替を行った。1898年キューバが反乱をおこし,米西戦争が始まったが,その結果スペインは最後の植民地キューバを失った。ウナムーノ・オルテーガなど98年代と呼ばれる知識人は,スペイン没落の原因を探る思索の道を開いた。19世紀後半イギリス・フランスの資本投下によって鉄道が敷かれ,鉱山業などが発達し,労働運動が活発化した。1879年のサラゴサのインターナショナル大会で,スペインの労働運動はアナキズム派コミュニズム派に分裂した。前者は全国労働者連合(CNT),後者は労働総同盟(UGT)に結集した。

【プリモとフランコ】第一次世界大戦中スペインは中立を固守したために,一時的に経済は繁栄した。しかし大戦の終結とともに失業者が激増し,労働運動の過激化を招いた。またこれより前,1909年モロッコ人の反乱の鎮圧のために軍隊が出動してモロッコ戦争がおこり,これに対する抗議運動によってアナキストの勢力が増した。1917年全国的規模でゼネストが行われた。1921年スペイン軍はモロッコ解放軍に壊滅させられ,モロッコ戦争反対の声はいっそう激しくなった。1923年プリモ=デ=リベラ将軍がクーデタによって国内の秩序を回復し,6年間にわたって独裁政治を行った。1929年,世界的大恐慌のあおりを受けてスペイン経済は不況に陥り,国内の不満が爆発した。モロッコ戦争以来政治化していた軍隊はプリモに反逆し,1930年プリモは辞職した。一方,共和制を樹立しようとする動きが,社会主義者や自由主義者のあいだで根を張りつつあった。1931年4月の地方自治体選挙で,マドリード・バルセロナなどの都市では圧倒的に共和制を望む者が勝利を収めたので,アルフォンソ13世は国外に亡命した。1931年6月の総選挙では,リベラル派・社会主義派・共和派が圧勝し,7月には第二共和政が発足した。しかしカトリック教会の権限の縮小や地方自治の拡大などによって保守派の反感をかい,1933年の選挙ではスペイン自治右翼連盟が勝利を占めた。1936年1月左翼は右翼に対抗するため人民戦線が結成された。1936年2月の選挙の結果,人民戦線政府が成立した。7月18日フランコ将軍はカナリア諸島よりクーデタを宣言し,スペイン各地の軍隊がこれに呼応した。しかし人民戦線は勇敢に抵抗したために内戦に発展した。ドイツ・イタリアは武器を送ってフランコ軍を援助し,イギリス・フランスは不干渉政策をとり,ソ連のみが人民戦線に武器を送った。1939年3月にマドリードが陥落し,4月内戦は終結しフランコの独裁制が始まった。内戦後5カ月後におこった第二次世界大戦ではフランコは中立を守った。1951年アメリカとのあいだに外交関係が復活し,1955年には国際連合に,1958年にはヨーロッパ経済協力機構に加盟し,スペインは徐々に国際的孤立から脱していった。1960年代のスペインの経済発展はめざましく,農業後進国から工業国への道を歩み始めた。1969年フランコはアルフォンソ13世の息子ファン=カルロスを後継者に指定し,ファン=カルロスは1975年フランコの死とともに即位した。フランコの死によってスペインの民主化への道は開かれ,1977年40年ぶりに総選挙が行われ,民主中道連合が勝利を占めた。1982年の選挙では社会労働党が大勝し,政権の座についた。

【宗教】スペインがローマ時代より最も熱狂的なカトリック教国であることは,周知の事実である。プロテスタンティズムは,スペインでは受け入れられなかった。19世紀以来,自由主義思想の到来によって,反僧侶主義があらゆる階層に浸透し社会主義運動と結びついた。第二共和政は教会と政治を分離させたが,フランコは1953年再びカトリックを国教と定めた。フランコ時代カトリックの一種の秘密結社オプス=ディのメンバーは,閣僚となってスペインの経済成長に寄与した。1982年に成立した社会労働党政府のもとで,再び教育界における教会の権限を縮小しようとする試みがなされ,論議を呼んでいる。

【文学】スペイン文学の最古の重要な作品は,『わがシドの歌』という叙事詩である。作者は不明だが,国土再征服運動の英雄エル=シッドの人間像を描きながら,当時の生活・価値観などを生き生きと伝えている。中世文学の傑作は,イタの大僧正,ファン=ルイスの『良き愛の書』で,神への愛・人間の愛について,ユーモラスなエピソードを書き綴る。スペイン最初の口語体のフィクションは,16世紀に書かれた作者不明のピカレスク小説の元祖『ラサリーリョ=デ=トルメス』である。はじめて庶民の人生観を描いて興味深い。16世紀は,ルイス=デ=レオン・サン=クアン=デ=ラ=クルスサンタ=テレケなどの神秘主義文学を生んだ。16世紀の半ばから1世紀にわたって続く黄金世紀の前触れは,セルバンテスの『ドン=キホーテ』であった。さらにローペ=デ=ラ=ベーガカルデロン=デ=ラ=バルカなどの優れた劇作家がそのあとに続いた。同時代のティルソ=デ=ラ=モリーナの『セビーリャの色事師と石の招客』は,ドン=ファン伝説の原型である。ケベード・ゴンゴラの難解な華麗な詩も,黄金世紀の末期を飾った。18世紀はフランスの模倣で,優れた作品は生まれなかった。19世紀はガルドスというディッキンスに似た作家に恵まれた。20世紀はウナムーノ・オルテーガ=イ=カゼットなどの思想家,ノーベル賞を受けた詩人ビセンテ=アレイシャンドレファン=ラモンヒメネス,ファシストに惨殺されスペイン内戦の悲劇を象徴する詩人・劇作家のガルシーア=ロルカなど枚挙にいとまがない。

【美術】スペイン美術の全盛期は16世紀末から17世紀にかけてである。イタリアに学んだリベラは,明暗のコントラストを強調するカラヴァッジョの影響を受け,聖者の殉教など凄惨なテーマを黒灰の色調で描いた。ムリーリョの画は,それとは対照的に色彩豊かでソフトである。クレタ島から来てトレードに定着したエル=グレコは,ヴェネツィア画法の特異な色彩で神秘的エクスタシーを表現した。ベラスケスは光と影の効果を研究して,「ラス=メニーナス」にみるように鏡の映像を新たな手法としてとり入れた。同時代の画家スルバランは主として宗教的テーマにひかれ,カラヴァッジョ風の修道僧の画を残した。18世紀から19世紀にかけて活躍したゴヤは,宮廷生活の軽薄さを諷刺する肖像画を多く描いた。1808年のナポレオンの侵略に対抗するゲリラの情景を描いた『5月2日の変』などは,リアリズムを予告している。『黒い絵』は怪物や妖婆を描いた表現主義的寓意画で,後世の画家に大きな影響を与えた。20世紀はピカソ・ファン=ミロ・ダリなどが輩出した。

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