●スターリン
AD1879
1879〜1953 本名ジュガシビリ。ソ連の政治家。レーニンの後継者としてソ連の最高指導者。スターリンは筆名で“鋼鉄の人”の意。グルジアのトビリシ県ゴリ市の生まれ。1888年ゴリ市初等神学校に入学し1894年チフリス市上級神学校に進む。1896年神学校内にマルクス主義者非合法サークルを組織し1898年社会民主労働党に入党,1899年神学校放校となる。その後,主としてコーカサス地方で活躍,逮捕・流刑を繰り返す。ボルシェヴィキ派に属し,のちペテルブルクに出て,1912年党中央委員となり,機関紙「プラウダ」(4月22日創刊)の編集などに携わる。スターリンの筆名はこのころから用いた。1913年〜1916年トゥルハンスキー地方へ流刑。1917年二月革命後ペトログラードに帰り,5月党中央委員会政治局員に選出,6月第1回ソヴィエト大会で中央執行委員に選出。以後レーニンとともに十月革命武装蜂起を指導。革命後民族人民委員(1917〜1923),国内戦時代には軍事委員会委員として,ツァリーツィン(1925年よりスターリングラード,1961年よりヴォルゴグラード)を白軍クラスノフ軍の攻撃から守る。1922年コミンテルン中央執行委員,1923年4月党中央委員会書記長に選ばれ,以後終身その地位にあって独裁的権力を振るう。ネップ期(1921〜1927)にあっては,これを資本主義への後退であるとし「永続革命論」に立つトロツキーに対し,ジノヴィエフ・カメネフと三人組(トロイカ)を形成して争い,1924年レーニンの死後は「一国社会主義」を唱えてトロツキーを追放し,ついで,ブハーリン・ルイコフ・トムスキーと組みジノヴィエフ・カメネフを追い,やがて前三者をも排除して党の主導権を握った。こうしたなか,1928年来第一次および第二次5カ年計画を実施,社会主義工業化と農業の集団化を強力に推進した。またコミンテルンを通じて「国際プロレタリアートとソ連の利害の一致」を原則とする共産主義運動の路線を形成した。第二次5カ年計画を承認した1934年1月の第17同党大会は“スターリンの勝利の大会”と呼ばれたが,その後,同年5月のポクロフスキー史学の批判に始まる“文化革命”の遂行,同年12月のキーロフ暗殺事件を契機とする「血の粛清」(1936年8月の「合同本部陰謀事件」,1937年1月の「併行本部事件」,1937年6月の「赤軍派将星粛清事件」,1938年1月の「右翼トロツキスト事件」)により,愛国心の高揚・個人崇拝をすすめ,また反対派をせん滅した。この間,1936年12月には「スターリン憲法」を制定,ソ連には基本的に社会主義社会が形成せられたと宣言し,権力を一身に集めて強力な独裁制を確立した。1939年第18同党大会を開いてから,1952年まで党大会を開かず,独ソ戦争中にも一度も党中央委員会を召集しなかった。1941年5月,スターリンは人民委員会議議長(首相)となり,同年6月に始まった独ソ戦争中は,祖国防衛人民委員会議長・ソ連軍総司令官・国防相を兼ね,1943年元帥に昇進,戦争を指揮した。戦争末期には1943年テヘラン,1945年2月ヤルタ,7月ベルリン会談に出席,戦勝後の国際的諸問題の取り決めに参加,1945年8月,日本に宣戦,ソ連は対日戦勝国の一員となる。戦後は東ヨーロッパに広大な勢力圏を築き,アジアにも大きな発言権をもち,東西陣営対立のなかで東を指導したが,1953年3月5日午前9時50分,脳出血で死去した。1956年第20回党大会で,権力を濫用し個人崇拝を助長したこと,過激な大粛清,国際共産主義運動とくに対ユーゴスラヴィア政策の失敗,独ソ開戦前の対独政策の誤り,少数民族政策の失敗,戦後の農業政策の立ち遅れなどが批判され,1961年にはその遺体はレーニン廟から撤去された。『レーニン主義の基礎』(1924),『弁証法的唯物論と史的唯物論について』(1938)など,十数巻の著作があり,マルクス主義理論に一つの発展を与えた。〔参考文献〕ドイッチャー,上原和夫訳『スターリン』I,II, 1963,みすず書房