●鈴木経勲 すずきけいくん
アジア 日本 AD1853 江戸時代
1853〜1938(嘉永6〜昭和13) 経勲はツネノリと読むのが正しいが,一般にケイクンと読まれる。父は孫四郎といい土佐藩の子。武州川島の鈴木氏を嗣ぎ江戸に出て徳川家に仕えた。経勲は1853年(嘉永6),東京浅草に生まれ,幕府の昌平坂学問所で学び,横浜の幕府陸軍語学所でフランス語を学んだ。維新後,父と静岡に移るが,父が健康を害し,その医療費を得るためラッコ密猟船に乗り組む。その経験から密猟取締策を政府に献策し,それをきっかけに外務省入りする。1884年(明治17),前年秋マーシャル諸島ラエ環礁で発生した漂着日本船乗組員殺害事件調査のため,マーシャルへ出張。ミクロネシアを訪問した初めての日本官吏である。1886年(明治19)外務省を退き,井上馨外相から与えられた忠信丸で,リシアンスキー島・クリスマス島などを探検し,海軍省にリシアンスキー島などの占領を献策するが容れられなかった。1889年(明治22),軍艦金剛の遠洋練習航海に同乗してハワイ・サモア・フィジーなどを訪問。翌1890年(明治23),田口卯吉の南島商会に参加し,天祐丸によるミクロネシア貿易巡航に同行。1884年(明治17)のマーシャルでの体験と1889年(明治22)の金剛巡航時の見聞を,1892年(明治25)『南洋探検実記』として著し,翌1893年(明治26),天祐丸巡航での見聞を『南島巡航記』として,また南洋各地の風物を『南洋風物誌』として著した。この三冊を俗に鈴木経勲の三部作という。1894〜1895年(明治27〜28)の日清戦役に従軍記者として参加し,初めてカメラを用いた日本人従軍記者となる。戦後は陸軍陸地測量部の嘱託となり,満州各地の調査に従事し,日露戦争前には陸軍の依頼で駐日ロシア公使館にスパイとして潜入したという。その後は保険会社に勤めたり,社会事業に携わったりして晩年を過ごし,1938年(昭和13),85歳の誕生日の前日,東京下谷の自宅で逝去した。伝記に『大平洋探検家鈴木経勲』(竹下源之介著,1943年刊)がある。