●鮓・鮨 すし
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フナずしのように,魚肉を飯とともに潰け込み,自然発酵させたもの,または,握りずしのように酸味をつけた飯に魚介や野菜をそえた料理。つくり方からいうと,前者の,用いた飯の自然発酵によって生じる乳酸にその酸味をあおぐ「馴れずし」と,後者の,食酢を加えて外部から酸味を与える「早ずし」の二つに大別される。馴れずしは,過去の中国や,現在の華南の少数民族や東南アジアにも見られるもので,本来は魚肉類の保存のためのものであったが,その後日本において早ずしへと独自の発展をとげ,今日,日本を代表する料理の一つとなるにいたっている。【中国におけるすしの歴史】鮨の文学は,最古の辞書『爾雅』に見えるが,これは塩からのことで,すしの意味ではない。すしを意味する「鮓」の字が見えるのは,後漢の『説文解字』からである。このころより鮓(馴れずし)が食べられるようになる。これは当時揚子江流域の料理であったといわれる。三国時代から順調に普及し南宋のときに全盛となる。ところが,元代には急激に凋落。蒙古人が魚類を好まなかったこと,鮓そのものが,なますや塩からに近くなったことが原因といわれている。明代にはやや復活するが,清代には再び凋落の途をたどる。しかし,その一方で,辺境の少数民族が多くの記録を残すこととなった。華南の少数民族や東南アジアでは,今日もなお鮓がつくられており,漢民族が鮓を伝えたとも十分考えられよう。
【日本におけるすしの歴史】文献に鮓の字が見られるのは,『大宝令』といわれている。もちろんそれ以前にすしが存在していた可能性も考えられる。篠田統氏は,大陸からイネが渡来したとき,一緒に伝わった魚類加工法の一つであろうとしている。
古代のすしに関しては,『延喜式』に記録があるが,これらはみな馴れずしであった。大きく発展するのは室町から戦国にかけてで,それは,従来のように長時間漬けず,魚が十分馴れないうちに食べる生成(なまなれ)の発生によるのである。そしてこれに伴い,生成の飯の部分を強調した飯ずし(箱ずし)が生まれる。これは,今まで副食物であった馴れずしが,補食的なものに変化したことを意味する。また、馴れずしの場合,とけた飯は捨てて魚だけ食べていたのを考えると,保存食から一つの料理となったことも意味している。江戸時代になるとこの新しい方法が定着し,元禄のころに早ずしが生まれる。すでに上方でつくられていた酢を使う早ずしが江戸で普及するのである。
握りずしの出現は,1822年ころ,本所の華屋与兵衛が発明したといわれるが,いろいろと工夫されていたものを彼がまとめたのであろう。これにより馴れずしの類は姿を消してゆくことになる。江戸で握りずしが現れたとき,五目ずしと握りとは同等で,また,握りが入る前の大坂では,上等は散らしで押しずしは並等であったという。この一般に関東で五目ずし,関西ではばらずしと呼ばれる散らしずしは,やはり飯ずしの流れをくむものである。一方巻きずしは,散らしずし同様,原則は精進である。なお稲荷ずしは,天保のころ,名古屋方面でつくられるようになったといわれている。
【日本におけるすしの分布】すしは日本において発展しただけに,その種類も多く,各地で郷土色豊かなすしがつくられている。第二次世界大戦後は,江戸前の握りずしが代表格となったが,本来すしはもっと多様なものである。
馴れずしとしては,琵琶湖一円のフナずし,生成としてはアユずしが有名である。和歌山のサバずし,兵庫県西部のツナシ(コハダ)も有名。京都のサバずし,大阪のバッテラもこれに入る。また,野菜を多分に混ぜた「いずし」も生成の一種である。代表的なのは,金沢の蕪ずし,飛騨のねずし,秋田のハタハタずしであろうか。飯ずしとしては,大阪の箱ずし,和歌山のコケラずし,鏡ずしなどがある。このほか,飯のかわりに豆腐滓を用いる卯の花ずしというのも各地でつくられている。
〔参考文献〕篠田統『すしの本』1970,柴田書店
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