●スコットランド
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グレートブリテン島の北部を占めるイギリスの一地方。その名は6世紀以降アイルランドからこの地に移住定着したケルト人の一派であるスコット人に由来し,スコットランド王国の統一の発展をみる12,13世紀になってようやく今日の意味をもつにいたった。なお古代ローマ人はその北部をカレドニアと呼んでいた。【王国統一まで】7世紀ころ,現在のこの地方には,南東部のロージアン地方にはアングル人の支配が南から伸びており,南西部ストラスクライドを中心にブリトン人の,北東部ストラスモアを中心にピクト人の,北西部クライド湾岸におよび付近の島々を中心にスコット人の国がそれぞれ建てられていた。8〜9世紀,スカンジナビア人が北部および西部に侵入し彼らに脅威を与えたのが原因となって,まず844年スコット人の王ケネス1世はピクト人の国の王を兼ね,11世紀にはブリトン人の王国およびロージアン地方もまたスコット人の王の支配下に入った。こうしてスコットランドは,11世紀後半,マルコム3世の治世の終わりまでに,スカンジナヴィア人の居留地を除き統一された。
【王権をめぐる対立抗争】12,13世紀にはイングランドに成立したノルマン王朝と対立を続けたが,関係も深くなった。それは政治制度の導入,両国王侯貴族間の結婚,両国にわたる封建的土地保有関係の形成などにみられる。13世紀末王位継承をめぐって内紛がおこり,それに加えて英王エドワード1世に封建的臣従の関係をとらされたこともからんで争乱が続いたが,14世紀になるとド=ブルースが自ら王と称して立ち,英軍と戦って勝利をおさめ,1328年独立を回復した。
1371年ド=ブルースの娘と宮宰ウォルターとのあいだに生まれた子がロバート2世と称して王位についた(ステュアート朝の開祖)。しかし,その後も内訌やフランスと結んでの対英戦争が続いた。ルターに始まる宗教改革運動はスコットランドにも伝播した。メアリ(MarY)の時代になり,王太后マリ=ド=ギーズの摂政のもとで,1559年改革者たちの弾圧が行われると内乱となった。女王側はフランスの,改革者側はイングランドの軍隊の援助をそれぞれ得て戦い,結局エディンバラ講和条約(1560)ではフランスのスコットランドからの撤退が決まった。その後スコットランドでは教皇権の廃止など宗教改革が行われた。
【イングランドとの連合から合同へ】1603年イングランドでエリザベスI世が没すると,外戚のゆえにジェームズ6世がその王位を兼ね(英王としては1世),両国は同君連合の形をとった。次のチャールズ1世がスコットランドにも英国教会の制度の導入や祈祷書の使用を強制すると,それに反対する国民とのあいだに二度にわたって主教戦争がおこった(1639,1640)。この戦費の調達問題が一つの契機となってイングランドではピューリタン革命が勃発した。スコットランドは1643年イングランド議会と厳粛同盟を結んでこれを援けた。しかし協力は長く続かず,その後イングランドの支配を受けたが,1660年の王政復古で旧に復した。1688年イングランドにおこった名誉革命はスコットランドにおいて喜びをもって受け入れられ,議会は王のカトリック復興政策に反対の立場から独自にジェームズ7世(英王としては2世)の改廃を決定し,ウィリアム2世 Wiliam II(英王としては3世)およびメアリ2世の即位を承認した。ついでアン女王(Anne)の治世に両国の合同の気運が高まり,両国議会は合同法案を批准し,1707年グレート=ブリテン王国が成立した。それ以後のスコットランドの歴史はいわゆるイギリス史のなかに合流することになった。
〔参考文献〕Dickinson, W. C.,“A New HistorY of Scotland”2vols.,1961〜2