●菅原道真 すがわらのみちざね
アジア 日本 AD845 平安時代
845〜903(承和12〜延喜3)平安前期の代表的文人官吏。【経歴】道真の祖父清公(きよただ)は遣唐判官・大学頭・文章博士などを歴任した学者であり,父の是善(これよし)も大内記・文章博士・東宮学士・大学頭などを経て参議兼式部大輔にまで昇った。このような家に生まれた道真は,早くから父や島田忠臣(ただおみ)に就いて漢詩文を学び,大学に入って日夜勉学に努め,文章得業生3年目の870年(貞観12)26歳で方略試にみごと及第した。その後十数年間,少内記・存問渤海客使・民部少輔・式部少輛・文章博士など,文才を発揮できる官職に相ついで任ぜられた。しかし,886年(仁和2)・42歳のとき讃岐守として赴任せねばならなくなり,4年間苦労の多い受領生活を送った。その途中に京都で“阿衡(あこう)の紛議”がおきると,太政大臣藤原基経に大胆率直な意見書を呈し,窮地にあった宇多天皇と橘広相(たちばなのひろみ)を堂々弁護している。これを機に,宇多天皇から非常な信頼を得,891年(寛平3)関白基経が薨ずると,ただちに蔵人頭として抜擢され,以後6年間の宇多天皇親政下に,式部少輔兼左中弁兼左京大夫,参議兼式部大輔兼勘解由長官兼春宮亮兼遣唐判官,中納言兼春宮権大夫兼民部卿などを経て,権大納言兼右近衛大将にまで栄進した。しかも,897年(寛平9)宇多天皇が譲位のさい,藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を認め,899年(昌泰2)醍醐天皇も時平を左大臣,道真を右大臣として重用されたので,源光以下公卿たちの道真に対する反発が強まった。また時平も,道真の娘が斉世(ときよ)親王(醍醐天皇異母弟)の室となったのは道真に醍醐天皇を廃して斉世親王を立てようとする野望の現れとみて讒奏したらしく,901年(延喜1)正月,道真は突如大宰権帥に左遷された。長男高視(大学頭)以下4子や友人源善(右近中将)なども多数連座して配流されたが,とくに道真は大宰府で惨めな幽閉生活を余儀なくされ,903年(延喜3)病没した(59歳)。しかし922年本官を復されて名誉を取り戻し,息子の高視や淳茂たちも召還され,子係に文人官吏が輩出している。
【事績】道真は,父祖以来の学者として私塾〈菅家廊下〉で多くの優れた人材を育てたが,また文人官吏として誠実に職務をまっとうし,数多くの治績をあげている。たとえば,[1]883年(元慶7)文章博士として秀才(文章得業生)の課試制度改善案を建議し,[2]翌年,太政大臣の職掌有無を勅問されて『職員令義解』の法意を明確に勘奏している。[3]894年(寛平6)遣唐大使に任ぜられたが,唐の衰弊や渡航の危険および莫大な出費などを考慮して,遣唐使の中止を提議し,[4]896年,諸国の財政を監察すべく中央から派遣される検税使は無益無意味なものと中止を提議している。さらに[5]『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』によれば,宇多天皇は皇太子に敦仁親王を立てるさいも譲位するさいも道真一人と相談したが,そのつど“直言・正論”を述べたので,〈菅原朝臣は是れ鴻儒なり,また深く政事を知る。……朕の忠臣に非ず,新君の功臣なり。……〉と推賞されている。
【著作】道真は11歳ころから漢詩を詠み,20歳前後から貴人の願文や諸事の序文などを草し,策問・奏状なども数多くつくっている。その大部分は『菅家文草』(全12巻)に収められ,祖父清公の『菅相公集』および父是善の『菅家集』とともに900年(昌泰3)醍醐天皇に献上したところ,白楽天の詩文集にも優ると激賞された。それ以後,大宰府流謫中の詩は親友紀長谷雄のもとに送られてきたものが『菅家後集』1巻として今に伝わり,前者以上に人の心を打つ。編著としては『類聚国史』200巻がある。893年(寛平5)の詩に〈聖主(宇多天皇),小臣に命じて旧史を分類せしむ〉と見えるが,六国史のうち最後の『三代実録』はこの前年から道真も編さん員として撰修を開始したばかりで(完成は延喜1年),当初は五国史の記事を項目別に分類したものと見られるが,その分類法にも道真の高い見識を窺い得る。
〔参考文献〕川口久雄校注『菅家文草・菅家後集』日本古典文学大系72,岩波書店,1966
坂本太郎『菅原道真』人物叢書100,吉川弘文館,1962
大宰府天満宮文化研究所編『菅原道真と大宰府天満宮』上下2巻,吉川弘文館,1975
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