50音順    検 索

●スカルノ

アジア インドネシア共和国 AD1901 オランダ領東インド

 1901〜1970 インドネシア民族独立運動における最大の指導者。インドネシア共和国初代大統領(1945〜1967)。

【出自・教育】スラバヤで誕生。父はジャワ人で下級プリヤイ(貴族)出身の小学校教師。母はブラーフマナ=カーストのバリ女性。14歳でモジョケルト(東ジャワ)のヨーロッパ人小学校の編入生となり,それ以後ジャワでオランダ語による西洋式教育を受けた。1916年にスラバヤの中学校(HBS)入学。イスラム同盟総裁チョクロアミノトの家に寄宿し,卒業までの5年間を過ごす。チョクロアミノトや同宿の多くの民族運動家から多様な政治思想的影響を受けた。1921年,開設間もないバンドンの工科専門学校(THS)に入学。1926年,工学修了士号を取得して卒業。

【民族独立運動】1926年,論文『民族主義,イスラーム主義,マルクス主義』を発表し,民族独立運動に身を投じた。オランダ植民地支配からの独立という共通目的達成のため,各政治勢力が小異を捨てて団結すべきであると主張し,混迷する運動に活路を開いた。1927年7月,非イスラーム主義民族主義者の団体,インドネシア国民同盟を結成し,議長に就任。翌年5月,インドネシア国民党と改称。同党は民族の統一と団結により,大衆行動を通して民族独立を達成しようとした。1929年末,反乱謀議の嫌疑で逮捕され,8カ月間の法廷闘争の末,4年の禁固刑の判決を受けた。法廷弁説「インドネシアは告発する」で植民地主義・帝国主義を痛烈に批判するとともに,独特の大衆主義(マルハエニズム)を提唱した。果敢な行動力,人を魅了する雄弁とあいまって,民族独立運動における指導的人物であるとの印象を人々に強く与えた。1931年末,恩赦令で釈放されたが,ハッタやシャフリールらのオランダ帰りのより西洋主義的な指導者とは袂を分かち,より大衆重視の路線を選んだ。1933年末,再び検挙され,フロレス島エンデ(1934〜1938),南スマトラのベンクール(1938〜1942)に流刑された。この時期はイスラーム研究に没頭し,イスラーム改革主義に接近したが,啓示の超理性的性格を否定する合理主義的イスラーム理解にとどまり,彼の思想の根源にある汎神論的なジャワ主義は揺るがなかった。

【日本軍政期】民衆総力結集運動を主宰し,中央参議院議長・総務部参与・ジャワ奉公会中央本部長などの要職につき軍政に協力しつつ,将来の民族独立の日に備えた。1945年6月1日,独立準備調査委員会で建国五原則パンチャシラ,すなわち民族主義・国際主義・民主主義・社会正義・神への信仰を提示するとともに,これらをインドネシアのナショナル=アイデンティティの基礎をなすデサ(村落)のゴトン=ロヨン(相互扶助・協力)原理で統合すべきであると主張した。

独立宣言以後】1945年8月17日,急進的青年層に促されて,ハッタとともにインドネシア共和国の独立宣言を行う。翌日,大統領に就任。独立以後1950年代なかばまでは,スカルノは民族団結者としての本領を十分には発揮できず,国家の近代的機構の運営にたけた実務家型指導者にその力を制約されていた。しかし,1957年,政党間・地域間対立が激化し,内乱が勃発するや西洋式の立憲的議会制民主主義は行き詰まったと断を下し,これを否定した「指導される民主主義」体制を軍部との依存関係のもとに形成し,権力を掌握していった。1959年独立記念日演説「わが革命の再発見」は国家イデオロギーの座につけられた。ゴトン=ロヨンが「民族の個性」として重視され,これを根拠に政治勢力を結集すべくナサコム体制が形成されたが,スカルノの役割は民族の統一者から仲介者へと微妙に変質していった。軍部との対抗上,西イリアン闘争,マレーシア対決などを通してその勢力拡大を彼が助けた共産党が力を急速に増し,ついに軍部との対決が不可避となった。1965年の九・三〇事件で軍部が勝利を収め,共産党はほとんど壊滅した。1967年2月20日,スカルノ大統領はその全権をスハルト将軍に移譲した。

01