●スエズ運河 スエズうんが
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スエズ地峡を貫いて地中海と紅海を結んでいる運河で,1869年10月17日に開通した。全長160km。【計画】スエズ地峡に運河を掘る考えは,古代エジプト時代からあったといわれ,近代に入ってからでも,東方貿易を行ったヴェネツィア商人やルイ14世・ナポレオンが計画した。
レセップス(1805〜1894)はフランスの外交官で,リスボンやマドリードで活動したが,1832年ごろからスエズ運河を考えた。その考えを伝え聞いていたエジプト太守サイード=パシャは,レセップスの請願を受けた形でこれを許可した。1854年10月30日である。スエズ運河会社はトルコのスルタンの許可を得て,1857年にアレクサンドリア―カイロ間の鉄道が完成し,それがスエズまで延長されることが決まった1858年に,資本金2億フラン(40万株)をもって設立され,フランスが半数を超す20万7,000株を,エジプトが17万7,000株を引き受けた。工事は1859年4月29日に開始されたので,開通までに10年以上を要したことになる。
【開通まで】ナポレオンが計画をもちながら実行できなかったのは,紅海と地中海の水位差が10mに及ぶとされたからであったが,実際には1〜2mにすぎず,陸地は平坦で,最高所でも15m程度で,約30kmは途中の湖を活用することができた。当時の技術においても,比較的簡単な工事で,砂のくずれに注意すれば,7,500万立方mの土量を掘り,除くことで完成されたといってよい。
それよりも,パーマストンをはじめとする,イギリスのあらゆる機会をとらえての妨害が問題であった。イギリスはエジプトがフランスに接近し,インド支配にまで影響が及ぶのみならず,世界商業の主導権をフランスに奪われるのをおそれたのである。この点では,レセップスよりもフランス政府の問題であった。総工費は約4億フランで,その70%はエジプトが支出し,中央部分がやや高い運河が完成した。開通式にはオーストリアのフランツ=ヨーゼフ皇帝夫妻をはじめ,名士多数が出席し,ヴェルディのオペラ「アイーダ」が演奏された。水路幅は海面で60〜100m,海底で22m,水深7.9mであった。現在でも水路・水深の拡張が続けられている。
【運河株買収事件】イギリスは1875年,エジプトが財政難に陥ったのを機に,ディズレーリが独断でロスチャイルド家から金を借り,運河会社株の44%を入手してフランスと並ぶ経営権を得た。さらにイギリスは,1878年のロシア-トルコ戦争にさいして,艦隊を運河に派遣し,1882年のエジプト民族主義者の反乱鎮圧を口実にして運河を武力占領し,スエズ地峡を永久的なイギリスの軍事基地にして,エジプト支配の拡大と歩調を揃えて運河の独占支配を完成させていった。1888年10月,コンスタンティノープル条約で,運河の中立・国際化が調印されたが,1914年にエジプトを保護国とし,1922年のエジプト独立後も軍隊を駐留させ,1936年には同盟条約によって駐兵権を合法化した。
【運河紛争】スエズ運河は,ジブラルタル・キプロスと並んでイギリスの地中海・中近東・アフリカ支配の要点となったが,第二次世界大戦後,各地のナショナリズムが高まり,イギリスの植民帝国は崩壊していった。1952年に革命がおこって共和国になったエジプトは,1956年7月,スエズ運河の国有化をナセル大統領が宣言し,年間1億ドルの運河収入をもって,アスワン=ハイ=ダムの建設費用に当てようとした。イギリス首相イーデンはフランスと協議し,国連安保理事会の調停が失敗に終わり,イスラエル軍がエジプトに攻めこんだ1956年10月,英・仏軍が派兵された。英・仏軍は1957年3月までに撤退したが,このあいだ,運河の通航は不能となり,エジプトの運河国営化が完成された。しかしその後も,イスラエル軍のシナイ半島占領で,1967年から1975年6月のあいだ運河は封鎖され,運河の最大の通過物である石油の不安を世界に与えた。