●須恵器 すえき
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古墳時代以降に日本で製作された青灰色の土器。江戸時代に行基焼,明治時代には斎瓮(いはひべ)あるいは祝部(いはひべ)式土器などと呼称された。しかし,祝部には「はふりべ」という訓はあるが,「いはひべ」はないことに加えて,『和名類聚鈔』に〈須恵宇都波毛能〉の名称が見えることから,後藤守一によって須恵器の呼称が提唱され,その後この名称が支配的となった。須恵器の特徴は成形の轆轤(ろくろ)を用い,登り窯によって還元焼成されることがあげられる。この種のやきものは,古代東アジアに広く分布する。その起源は前2000年の中国竜山文化の灰陶に始まり,灰陶は轆轤技法・叩き成形技法・還元焼成技法を備えている。日本の須恵器製作技法の直接の起源は,朝鮮半島南部の陶質土器に求められる。朝鮮半島の陶質土器は新羅と百済の故地で差異があり,わが国の須恵器はその間にある洛東江流域のものに共通する。この製作技術者の渡来を物語る史料としては,『日本書紀』の「垂仁紀」3年の条の近江鏡谷へ新羅から陶工が渡来したとの伝説と,「雄略紀」7年の条の百済が献上した新漢陶部高貴ら多数の工人を大和に定住させたとの記事があげられ,伝来の状況の一端を暗示している。
須恵器の器形は甕・壺・瓶・器台・ハソウ※注1※・蓋杯(ふたつき)・高杯・盤・皿などに大別される。このうちで最も種類の多いのは壺・瓶であり,口頸部の変化・台・脚の有無・蓋の有無などによってさらに細分される。壺の場合,口頸部の形態によって広口・直口・短頸などに分かれ,瓶は壺のうちでも頸部の細いものをさす。瓶には長頸瓶,俵に似たかたちの横瓶(よこべ),扁壺の両肩に吊手をつけた提瓶(ていへい),扁平な体部の上面の一方に扁して口縁部をつけた平瓶(へいへい)などがある。その用途は基本的に実用の容器と葬祭供献用とに分けることができる。しかし,初期須恵器の場合,古墳や祭祀遺跡から出土する須恵器の器形はほとんどすべての種類にわたっており,日常生活用とまったく区別がない。これが,群集墳が最盛期を迎える6世紀後半代には,横穴式石室に伴って土器の大量副葬が流行した結果,一部の器形が葬祭用としての形態を示すようになる。
須恵器は前述のように窖窯(あながま)のなかで焼かれる。窯は地下式と半地下式があり,単室登り窯の形態をとる。窯内は燃料を入れる焚き口と燃焼室,土器を並べる焼成室に分かれ,焼成室の奥壁に煙出しの煙道がつく。焼成は最初酸化焔で行い,最終段階に大量の燃料を投入して焚き口をふさぐ。この結果,窯内は酸素不足となり還元状態になる。この還元作用と燃料の不完全燃焼による煤煙によって,須恵器は青灰色の色調に焼きあがる。
須恵器窯の最初のものは,大阪府須賀2号窯や同府高蔵73号窯など大阪南部に集中し,5世紀代には陶邑で製作された須恵器が各地に供給された。この須恵器生産が他地域に伝播するのは5世紀末から6世紀の初頭で,この時期の須恵器窯として宮城県大蓮寺窯・静岡県衛門坂窯・愛知県東山窯・三重県久居窯・滋賀県鏡谷窯・大阪府千里窯・島根県高畑窯・石川県深沢窯などがあげられる。7世紀初頭にはさらに広範囲に波及し,地方に定着して独自の展開をみせるようになる。この時期の須恵器窯には瓦と一緒に焼くものも見られ,瓦に須恵器の技法が認められるものもある。このことから,古墳時代終末から白鳳時代にかけて地方で流行した氏寺建立との関係によって,須恵器窯が地方へ波及したとも考えられる。さらに,8世紀以降には全国的に須恵器が一般雑器として用いられるようになる。
〔参考文献〕田中琢・田辺昭三『須恵器』日本陶磁全集4,1977,中央公論社
原口正二『須恵器』日本の原始美術4,1979,講談社
田辺昭三『須恵器大成』1981,角川書店
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