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●スウェーデン

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 スウェーデン王国

 面積約45万平方km。人口約830万人。首都ストックホルム。立憲君主国で,現国王はカール16世グスタフ(在位1973〜)。“スヴェーリエ”は最も有力な部族であったスヴェア人の国の意味である。スカンジナヴィア半島の東半分を占める国土は南北約1,600km,東西約500kmと細長い。東はボスニア湾とバルト海,南はバルト海,西はスンド・カテガット・スカゲラックの各海峡に面し,陸上ではフィンランドおよびノルウェーと国境を接する。スウェーデン領の島嶼の内,バルト海上のゴットランド(Gotland。3,001平方km)とエーランド(1,344平方km)が最大である。国土の約50%は森林であり,全土に大小約9万6,000の湖が点在する。気候は総じて海洋性と大陸性との中間的特徴を呈するが,地域的には三方を海に囲まれた南部は冬温暖な海洋性を示し,北上するに伴い冬の温度は急激に降下していく。南部のスコーネ地方では雪に覆われる期間は1カ月にすぎないが,中部では3カ月程度,北部では6〜7カ月に及ぶ。人種は北ゲルマン系のスウェーデン人が大部分を占めるが,フィン人やラップ人も少数住んでいる。公用語はスウェーデン語。

【歴史】8世紀末から,北欧はいわゆるヴァイキング時代を迎えるが,それ以前のスウェーデンに関する記録としては,1世紀末のローマの歴史家タキトゥスの『ゲルマーニア』や,6世紀の歴史家ヨルダーネスの『ゴート史』などがある。とくに前者は中央スウェーデンのメーラレン湖地方にいたスヴェア人と解釈される“スイオーネス”という部族について,貴重な情報を提供している。

ヴァイキング時代】この時代スウェーデン人は,主にバルト海やロシアへの略奪行や交易活動で多いに活躍した。国内では9世紀前半には中央スウェーデンの商業地ビルカを中心に,スヴェア人の王国が成立していた。さらに900年代末にはエリック=サイルシェル王(在位?〜994ころ)が統治し,その息子オーロフ=シェットコーヌング王(在位994ころ〜1022)がキリスト教を受容し,貨幣を鋳造した最初のスウェーデン王となった。王権の伸張は商業地ビルカを中継点とするバルト海交易における利益がその基盤となっている。1060年代にヴァイキング時代は終焉し,中世へと移行した。

【中世】1100年代から1200年代にかけ,スウェーデンでは王族間で激しい抗争が展開されたが,1250年エリック=エリクソン王(在位1234〜1250)が後継者なく没すると,王位は彼の甥のヴァルデマル(在位1250〜1275)に継承され,ここに1363年まで続くフォルクング王朝が成立した。ヴァルデマル王の弟マグヌス=ラドゥロス(在位1275〜1290)治世になると,王権は教会や貴族の支持のもとで強化され,また顧問会議が設置されるなど,国家機構も整備された。マグヌス王の死後,彼の後継者ビルイェル=マグヌソン(在位1290〜1318)とその兄弟とのあいだで抗争がおこり,ビルイェルは兄弟を1318年に殺害したが,自らも翌年ノルウェー王マグヌス=エリクソン(在位1319〜1363)によって廃位させられた。しかし1363年スウェーデン貴族はマグヌス王を追放し,北ドイツのメックレンブルク家アルブレクト(在位1363〜1389)を王に招請した。1380年代王と貴族の対立から,貴族は当時デンマーク-ノルウェー連合王国の事実上の支配者であったマルグレーテに支援を要請したので,彼女は1389年アルブレクトを破り,スウェーデン支配の足掛かりをつくった。1396年姉の孫のポンメルンのエリック(在位1396〜1439)をスウェーデン王位につけたマルグレーテは,翌1397年のカルマル会議北欧三国の連合を成立させた。マルグレーテの死後実権を握ったエリックの政策に不満を募らせていたスウェーデン人は,1434年エンゲルブレクトに率いられて反乱をおこし,彼が殺害されたのちも反乱を続行し,1438年にはカール=クヌットソンをスウェーデンの支配者に選んだ。1441年デンマーク王にクリストファー3世が即位すると,スウェーデンは三国連合に復帰したが,彼が1448年に没すると,再度クヌットソンが支配者となり,これ以降短期間(1457〜1464,1497〜1501)を除き,スウェーデンには独自の支配者が擁立された。1520年スウェーデンを征服したデンマーク王クリスティアン2世が,同年行ったスウェーデン貴族・聖職者の大量処刑いわゆる“ストックホルムの血浴”の後は,グスタフ=ヴァーサ(在位1523〜1560)がリューベックの支援を受けて反乱をおこし,1523年スウェーデン国王に推戴され,カルマル連合は瓦解した。

【近世】スウェーデン王となったヴァーサは1527年宗教改革を断行,教会領を没収した。また強力な常備軍や海軍を創設し,さらに1544年世襲王制を導入するなど,整備された強力な中央権力の樹立に尽力した。1500年代中ごろ以降,スウェーデンの対外政策の重心はバルト海に移った。バルト海におけるスウェーデンの勢力拡大はデンマークとの激しい対立を呼びおこし,北方七年戦争(1563〜1570)やカルマル戦争(1611〜1613)がおこった。1630年グスタフ2世アドルフ(在位1611〜1632)はプロテスタント側に立って三十年戦争に介入し,1632年王が戦死したのちは,彼の宰相オクセンシャーナが戦争を継続,1648年のウェストファリア条約でブレーメンやフェルデンの司教区ならびに西部ポンメルンを獲得した。1654年クリスティナ女王から譲位されたカール10世グスタフ(在位1654〜1660)は,1657年デンマークといわゆるカール=グスタフ戦争を開始し,翌年のロスキレ協定スカンジナヴィア半島南部のスコーネ・ハッランド・ブレーキンゲなどのデンマーク領を奪い,ここにスウェーデンはバルト海地域における最強の勢力としてその絶頂期を迎えることになった。しかし1700年に始まる北方戦争では,ロシア・ポーランド・プロイセン・デンマークから攻撃を受け,さらに1709年ロシア皇帝ピョートル1世(大帝)に大敗するなどして,1721年の戦争終結時にはフィンランドを除くバルト海辺のほぼ全域を奪われ,バルト海における覇権を失った。このような事態に対する不満から貴族は1720年絶対王制を廃止し,貴族・聖職者・市民・農民の四身分から構成される国会を3年ごとに召集すること,また国会に立法権などを付与することなどを規定した政体書(憲法)を制定した。これ以降スウェーデンは王権の弱体な時代いわゆる“自由の時代”を迎えるが,この時代はロシアへの報復を唱えるハット党とロシアとの協調を主張するフールン(1664〜1742)の率いる党派の抗争の時期でもあった。1720年代から1738年までフールンが,それ以降1760年代末まではハット党が政権を担当した。しかし1771年王位についたグスタフ3世(在位1771〜1792)は,クーデタを行い啓蒙専制主義を導入,“自由の時代”は終わりを告げた。

【19世紀】1789年に勃発したフランス革命に続くナポレオン戦争は,スウェーデンに大きな影響を及ぼした。この戦争の初期にはスウェーデンはデンマークと武装中立同盟を結んでいたが,1800年これが解消されると,フランスに対抗してイギリスやロシアと同盟した。しかしその後の国際関係の変化に伴い,1808年ロシアと戦って敗れたスウェーデンは,翌年フィンランドをロシアに割譲しなければならなかった。

 このような事態のなかで1809年3月のクーデタでグスタフ4世アドルフ(在位1792〜1809)が退位し,同時に新憲法がとり急ぎ制定された。1810年新王カール13世(在位1809〜1818)の後継者に迎えられたナポレオンの部下のベルナドッテ将軍は,カール=ヨーハン(後のカール14世ヨーハン)と名のり,高齢のカール13世に代わって政治を行った。彼は1812年フランスと断交,さらにナポレオンの敗北後はデンマークを攻撃し,1814年のキール条約でノルウェーをスウェーデンとの同君連合に組み入れることに成功した。

 1830年の七月革命,1848年の二月革命の影響下で,自由主義者から議会改革要求が提出されたが,カール14世ヨーハン(在位1818〜1844)やオスカル1世(在位1844〜1859)治世には,それらはほとんど実現されなかった。しかしカール15世(在位1859〜1872)治下の1866年,身分制議会の廃止と二院制の導入を骨子とする議会改革が実施されたが,選挙権は成人男子の22%が得たにすぎなかった。

 1856年に開始された鉄道建設は1870年代に本格化し,交通網の整備も行われ,その結果工業化が促進されたが,これに伴い深刻な社会・経済問題も発生した。アメリカへの移民の数が増大したのもこの時期である。1889年社会民主党が結成され,1897年下院に初の議員を送り込んだ。

【20世紀前半】20世紀初頭ノルウェーの独立問題がもち上がった。当時世界第3位の海運国になっていたノルウェーは,自国に不利なスウェーデンとの共同領事館制の廃止と自国の領事館の設置を希望し,19世紀末からスウェーデンと交渉を行っていた。しかしスウェーデンが,ノルウェー領事館をスウェーデン外務省の管轄とすることに固執したため,1905年交渉は決裂し,同年6月ノルウェーは独立を宣言,スウェーデンも平和裡にこれを承認した。1907年比例代表制と男子普通選挙が採用され,1919年には婦人へも拡大された。第一次世界大戦では中立を堅持した。1920年代社会民主党は三度政権の座につき,1932年以降はわずかな期間を除き,1976年まで政権を担当することになった。大恐慌期にはハンソン(1885〜1946)を首班とする社会民主党が,恐慌克服のための大胆な財政政策や公共事業を含む対応策を実施し,加えて福祉国家実現へ向けての政策に着手した。

 第二次世界大戦が勃発すると,スウェーデンはデンマークやノルウェー同様中立を宣言した。しかし1940年4月9日デンマークとノルウェーがドイツ軍に占領されたのちは,ドイツに対し兵員や軍事物資の領内通過などで一連の譲歩を余儀なくされた。しかしドイツ軍がスターリングラードで大敗した1943年以降は,これらの領内通過権のほとんどを取り消すなど,ドイツとの関係を弱めていった。スウェーデンは大戦中ほかの北欧諸国の問題に直接関与することはしなかったが,フィンランドへは義勇軍や武器を送ったり,多数の亡命者,とくにデンマーク在住ユダヤ人やレジスタンスに避難場所を提供したりした。

【戦後】第二次世界大戦での苦い体験と戦後の厳しい東西対立のなかで,北欧三王国による“共同防衛同盟”構想がスウェーデンから提示されたが,とくにスウェーデンとノルウェーの対立から実現しなかった。その結果デンマークとノルウェーは北大西洋条約機構(NATO)に加盟したが,スウェーデンは引きつづき武装中立政策を堅持した。1952年北欧会議に,1959年ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加入した。他方1946年に加盟した国際連合に対する貢献は顕著なものがあり,とりわけ国連の平和維持活動に対する協力ぶりは目をみはるものがある。加えて発展途上国に対する援助にも尽力している。国内的には,戦禍を免れたスウェーデンでは戦後も引きつづき順調に拡大した工業生産が,1950年代・1960年代にはとくに飛躍的な伸びを示した。こうした情況下で社会民主党政権は各種の社会福祉政策を実施し,スウェーデン人の生活水準は先進国中最高のものとなった。しかし1970年代の世界的不況のもとで,重税・失業・インフレ・核エネルギーなどの諸問題で社会民主党に対する批判が高まり,1976年の国政選挙の結果,社会民主党は敗北し,44年に及ぶ長期政権の座を降りた。

【宗教】スウェーデンのキリスト教化への最初の試みは,9世紀前半“北欧の使徒”と称されるフランク人修道士アンスガルによって,交易地ビルカを中心に行われたが,大きな成果は収めなかった。11世紀前半オーラフ=シェットコーヌング王がキリスト教を受容し,ステンシル王治世(在位1060ごろ〜1066)に中央スウェーデンの交易地シグトゥーナに最初の司教座が設置された。しかし1070年代になっても古ウプサラに異教の寺院が存在するなど,キリスト教に対する抵抗はスウェーデンでは概して強いものがあった。1120年ごろには司教座は6カ所に増加し,さらに1164年ウプサラに大司教座が置かれた。1527年国王グスタフ=ヴァーサが行った宗教改革によりルター派になった。1540〜1541年『グスタフ=ヴァーサ欽定訳聖書』が成立した。現在大多数が福音ルーテル派に属している。

【文学】スウェーデン最古の文学というべきものは,石や木片に刻まれたルーン銘文で,発見された総数は3,500に達するが,その多くは10世紀後半から11世紀を通じてつくられた。中世の著作物として重要なものは韻文年代記で,フォルクング家の統治した約1世紀を扱った『エリック年代記』,15世紀後半の『カール年代記』,1500年ごろ成立した『ステューレ年代記』が現存し,これらは史料としても貴重である。13世紀中ごろから古スウェーデン語による地方法の成文化が開始され,また14世紀ごろ『マグヌス=エリックソン全国法』が成立した。1483年印刷術が導入された。宗教改革者ペトリ(1493〜1552)は,聖書のスウェーデン語訳や賛美歌・聖書劇の創作で活躍したスウェーデンが生んだ16世紀最大の文人である。1540〜1541年の『グスタフ=ヴァーサ欽定訳聖書』はスウェーデン語の発展にとっても意義深いものである。

 1644年親政を開始したクリスティナ女王は,デカルトなど当代一流の文人を招聘し,スウェーデン宮廷をヨーロッパ随一の文化水準にまで高めた。18世紀に出現したスヴェデンボリ(1688〜1772)は宗教思想家として世界的名声を得た。またどん底の生活のなかから多くの酒の歌を書いた大ブルジョワジー出身のベルマン(1740〜1795)はスウェーデン最大の詩人のひとりであり,彼の歌は今日でも愛唱されている。敗戦(1809)の痛手から国民を鼓舞し,祖国愛を高揚させる目的で1811年設立されたイェート協会には,北欧ロマン主義の最高峰のひとりテグネール(1792〜1846)も加入していた。同時代最も独創的な才能を発揮した作家はアルムクヴィスト(1793〜1866)であった。

 19世紀後半には,世界文学史上偉大な作家のひとりストリンドベリ(1849〜1912)が小説・戯曲・詩など多方面にわたり活躍した。19世紀末から20世紀にかけての新ロマン主義文学では,その代表者たるヘイデンスタム(1859〜1940),地方の伝統的文化に根ざした抒情詩を書いたカールフェルト(1864〜1931),児童文学に確固たる地位を与えた女流作家ラーゲルレーフ(1858〜1940)らが輩出した。これら三人はノーベル賞受賞者である。その他現代スウェーデン文学界で特異な地位にあるノーベル賞作家ラーゲルクヴィスト(1891〜1974)や,日本でも知られている女流児童文学作家グリペがいる。

【学術および探検】文科方面では,考古学の分野で型式学的研究法を確立したモンテリウス(1843〜1921),歴史学のイエイイエル(1783〜1847)が著名である。他方自然科学では摂氏寒暖計の考案者セルシウス(1701〜1744),植物学の祖リンネ(1707〜1778)とその弟子で1年以上日本に滞在し,帰国後『日本植物誌』を著したツンベリ,ダイナマイト・無煙火薬を発見したノーベル賞創設者のノーベル(1833〜1896)がいる。

 北欧最古の大学が1477年ウプサラに,1668年にはルンドに創立された。探検においては三度にわたる中央アジアの学術探検を実施し,来日したこともあるヘディン(1865〜1952)が世界的に著名である。

〔参考文献〕角田文衛編『北欧史』1970,山川出版社

百瀬宏『北欧現代史』1980,山川出版社

フレデリック=デュラン,毛利三彌・尾崎和郎共訳『北欧文学史』1977,白水社

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