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●水平社 すいへいしゃ

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 1922年(大正11)3月3日〜1942年(昭和17)1月,近世以来の封建的身分差別にもとづく部落差別の完全解消を目的とした部落民の手による全国的組織。1871年(明治4)8月,太政官布告により近世のえた・非人らは身分・職業とも平民同様にするという「解放令」が発令されたが,現実には近世以来の身分差別に加えて,政府の近代化政策にも「人外之人」として取り扱われ,その生活実態にも差別行政が続けられ,部落の低い労働条件は日本資本主義の発達に利用された。20世紀に入ると,政府の部落行政の欠如により部落民の自主的な改善運動がおこり,1902年(明治35)の備作平民会,その翌年の大日本同胞融和合,1912年(大正1)の大和同志会,その2年後の帝国公道会など,部落改善団体が各地で結成された。しかしこれらの団体は部落の生活の改善,とくに風俗と道義心の鼓吹,部落民の自粛などを主としたものであった。社会主義運動の普遍を恐れていた政府は,この運動に注目し,官民協力で改善運動の推進をはかった。いわゆる融和運動がこれである。

 1917年(大正6)11月,ロシア革命が勃発し,世界最初の労働者,農民の手によると称する社会主義国家が成立した。これが日本の社会主義運動に影響を与え,資本主義体制に圧迫されていた人々に,団結の力と国家改造の考えをもたせ,部落解放運動を刺激した。その翌年,ソ連を牽制するためのシベリア出兵で,参加70万人という米騒動が勃発した。これの送検者8,185人のうち,部落民は887人であり,ここに政府は部落問題の重要性を初めて知った。他方,吉野作造らによって民本主義運動があり,また部落有力者や一部有識者による融和運動が高揚し,1921年(大正10)9月の同愛会,その翌年2月の大日本平等会の結成となった。これらの運動は,世人に部落差別を認識させ解消への努力を訴えたが,また部落差別が社会不安を引きおこすことを恐れた対策であって,部落民の人権を十分に尊重しようという姿勢が不十分であった。全国水平社は,ここに反発して創立された。

 1921年(大正10)秋,奈良県南葛城郡掖上村柏原の西光万吉(清原一隆),阪本清一郎らが設立を計画し,南梅吉,平野小剣,米田富らが加わった。翌年3月,京都岡崎公会堂で全国各地から部落民2,000人余らが参集して創立した。その綱領には部落民自らの行動による絶対の解放,部落民の経済・職業の自由の絶対的獲得,人間性の原理に覚醒し,人類最高の完成への突進をあげ,人間の社会の平等(水平)を期した。宣言には人間をいたわるような施策を排撃し,団結して人間の尊厳のもとに人の世に熱と光を願求礼讃した。その決議には,侮辱的言行に対する徹底的糾弾,全水の統一のため月刊雑誌『水平』の発行,東西本願寺の意見を聞いて適当な行動をとるとした。

 部落民の結集は高揚し,1923年(大正12)末には3府27県300支部と拡大し,個人,企業,団体,国家権力機関にも徹底した差別糾弾闘争を行い,差別者に謝罪をせまった。1922年の奈良県大正小学校での差別事件,1923年の奈良県の水平社と国粋会(右翼団体)との抗争,1924年の徳川家達の辞爵問題,1925年の群馬県世良田村の部落襲撃事件,1926年の福岡連隊事件などと大事件がつづき,差別糾弾の激化に世人をおののかせた。しかしこの糾弾闘争は部落差別を潜在化させた。国家権力は部落の糾弾闘争に弾圧を強化していった。ここにいたって水平社内部に分裂がおこり,一般労農運動との連携をはかり政治的活動を主張する派,反政治的立場をとり無政府主義を主張する派,純粋な水平社第一主義を唱える派などに分派した。そこへ1928〜29年(昭和3〜4)の共産党検挙や折からの昭和恐慌によって,水平社運動は低迷し沈滞した。しかし1933年(昭和8),高松地裁の差別判決事件に覚醒され,闘争を展開した。糾弾闘争の重要性とともに部落の経済生活を守る部落委員会活動を展開した。そしてしだいに政府の融和事業に歩みより,成果をあげた。日中戦争の勃発に伴い,社会運動が衰退するなかで水平社も運動の転換をせまられ,1940年(昭和15),大政翼賛会運動へ協力し,大和報国運動,部落厚生皇民運動など,国策に協力する形となり,1941年の同和奉公会の発足で解散をせまられ,翌年1月,自然消滅した。第二次世界大戦後,部落解放全国委員会として復活し,1955年(昭和30)部落解放同盟と改め,部落問題を国策として解決させる運動を展開した。

〔参考文献〕部落解放研究所『水平運動史の研究』2〜4

井上清『部落の歴史と解放運動』1969,田畑書店