50音順    検 索

●水田稲作農耕 すいでんいなさくのうこう

AD 

 稲作は,その技術や栽培様式によって,二つに分類することができる。一つは,陸稲(おかぼ)を焼畑で栽培する方法である。この方法は,今日,東南アジア,アフリカ,南アメリカのアマゾン流域などにおいて行われている。もう一つは,日本をはじめモンスーン=アジア各地でみられる水田における稲作,すなわち水田稲作農耕である。

 水稲を栽培する水田は,その周囲にあぜをつくり,水をためることができるようになっている。水田は,灌漑水の排水状態により,湿田と乾田に分類することができる。湿田では,1年中水田が湛水状態である。そのため,二毛作を行うことができず,生産力も乾田に比べて低い。一方乾田は,排水がよく,灌漑水を必要な時に断つことができる。そのため,水稲の栽培期間外には,畑と同様に,麦類,ナタネ,レンゲなどの他の作物を栽培する二毛作が可能である。また,乾田の場合,稲の収穫量は湿田より多い。

【世界の水田稲作地帯】水稲の栽培には,モンスーン=アジアのように高温多湿な気候が適している。とくに,大きな河川によって形成された肥沃な沖積平野は,広大な水田地帯となっている。今日世界において,水田稲作が盛んな地域としては,モンスーン=アジアでは,日本全土,中国の華中・華南,とくにチャンチアン(長江)中下流平野およびチューチアン(珠江)デルタ,ベトナムのトンキンデルタやメコンデルタ,タイのチャオプラヤー(メナム)デルタ,ビルマのイラワジデルタ,インドおよびバングラデシュのガンジスデルタなどである。また,インドネシアのジャワ島やバリ島でも,水稲栽培が盛んである。フィリピンのルソン島やインドネシアのバリ島の山地でみられる階段上の棚田は,美しい景観として有名である。

 モンスーン=アジアは膨大な人口を抱えており,労働集約的な水田稲作が発達してきた。稲は,栽培作物のなかでは栄養価が高く,多収穫性を有しており,非常に優れた食料である。このため,稲の単位面積あたりの人口支持力は小麦より高く,結果的にモンスーン=アジアの人口稠密な特色は,水田稲作によって培われてきたということができよう。

【水田稲作社会】水田稲作では,田植,活着,出穂などの時期に,灌漑水が十分に供給される必要がある。そのため,灌漑用水の管理はきわめて重要な作業となる。水田稲作地帯では,多くの水田の1枚1枚にまで水を引くために,古くから複雑な水利慣行がつくられてきた。そして,灌漑を基軸にした社会組織が,緻密に形成されている。また,水利慣行によって,村落内部の共同体的結合が強められると同時に,村落間の社会的統合も進められてきた。

 安定した水稲の収穫を得るためには,灌漑水路の建設が不可欠である。しかし,そのような事業を行うことができるのは,ある程度の財力をもった地主や資本家,あるいは強い政治権力を有する者などに限られる。したがって,水田稲作地帯では,少数の富裕な地主階級と多数の貧しい小作農民という社会関係が出現してきた。水田稲作農耕においては,田植や収穫などの時期には,多くの労働力が必要であり,人々が共同作業を行う習慣が伝統的にあった。たとえば日本では,隣近所や気のあった家と結(ユイ)の関係をむすび,労働力を交換しあうことにより,一家の労働力不足を補ってきた。しかし,このような共同作業は,稲作の機械化の急速な進展につれ消滅しつつある。

 以上のように,水田稲作地帯では,水利慣行とともに共同作業が,村落社会や人々の生活の基礎となり,それらによって共同体的性格が強い社会が形成されてきたのである。

【水田稲作文化】水田稲作が広く営まれている地域では,伝統的に水田稲作を中心とした文化が創造されてきた。水稲を栽培する過程で,稲あるいは稲作に対する観念や世界観が形成されてきた。その代表的な例は,稲魂(いなだま)信仰であろう。稲魂とは,稲の生命の根源にある霊をいい,これは水田稲作農耕民の稲に対する神聖感を表している。稲魂は,日本では一般に田の神と称される。田の神は祖霊的な性格をもち,田に降りてきて,出仕事をする農民の作業を守り,稲の成長を助けて豊かな実りを保証する神として祭られる。田の神は,一般に田植のときに降臨し,田植後あるいは収穫後,山に戻るものと考えられている。

 水田稲作には,稲の成長過程に応じた農耕儀礼が伴う。たとえば1年のサイクルでみると,稲の豊作を神に祈る正月の予祝儀礼に始まり,田植儀礼があり,刈上げ祝い,豊年祭などの収穫儀礼で終わる。これらの儀礼は,家族あるいは村が,その祭祀単位となって行われる。このような農耕儀礼は,日本のみならず,水田稲作社会で普遍的にみられる。

【日本における水田稲作農耕】日本における稲作の歴史について,最近の研究によれば,すでに縄文時代末期に陸稲が焼畑で栽培されていた可能性があるといわれている。しかし,日本における本格的な稲作の始まりは,弥生時代初期,すなわち前300年ごろに,中国大陸から水稲の栽培が北九州に導入されたことであろう。弥生時代後期の遺跡である静岡の登呂遺跡では,自然灌漑ではなく,すでに大規模な人口灌漑設備を伴った水田跡が発見されている。当時,種もみは水田に直播し,収穫は穂先のみを石包丁で刈る方法で行われていた。紀元後300年前後には,北海道を除く日本のほぼ全域に水田稲作がひろまった。直播に代わって田植による栽培法が普及したのは,奈良時代末期から平安時代にかけてであり,そのころには,稲の収穫は鉄鎌による根刈りで行われるようになった。

 鎌倉時代末期になると,灌漑水利が発達し,農耕に牛馬が使用され,犂耕が普及した。また,二毛作も始められた。近世中期以降,米の商品化が進行し,米の生産量もしだいに増加した。その要因としては,新田開発による水田面積の増加,および稲作技術の進歩があげられる。油かす,干鰯(ほしか)などの金肥の使用が増加した。また,耕作具として備中鍬,脱穀具として千歯こき,調整具として唐箕(とうみ)や千石どおしなどの農具が発明・改良された。灌漑揚水用具としては,水車,龍骨車(りゅうこつしゃ),踏車(ふみぐるま)などが用いられた。

 明治以降の稲作技術の発達はめざましかった。農薬や化学肥料の普及,機械化の進展,さらには耐冷性・耐病性などに優れ,食味もよく,多収性に富んだ水稲品種の改良などにより,米の生産量は急増した。そして,北海道も東北と並んで,日本における重要な稲作地帯となった。

【東南アジアにおける水田稲作農耕】東南アジアにおける水田稲作は,大きく三つの類型に分けられる。[1]粗放的・自給的水稲作は,東南アジア各地でみられるが,肥料はほとんど用いず,灌漑水は雨季の天水にのみ依存している。そのため,乾季は栽培できず,夏期の一期作のみである。[2]商業的水稲作は,大河川のデルタ地域で広く行われている。デルタ地域は,もともと開発が遅れたところであるが,植民地経済の進展により,米の商品価値が高まり,大規模な灌漑・排水事業が行われた。イラワジデルタやチャオプラヤーデルタにおける稲作は,この類型の代表的な例である。栽培技術は比較的粗放的であり,種もみはふつう直播される。乾季に十分な水の供給ができないところでは,二期作ができない。[3]集約的水稲作は,インドネシアのジャワ島やバリ島,タイ北部のチェンマイ盆地,ビルマ北部のマンダレー盆地などでみられる。肥料を用いるために土地生産性が高く,乾季にも人工的に灌漑を行うために二期作が可能である。

 タイは,1982年にアメリカ合衆国を抜いて,世界一の米輸出国の地位を回復し,ビルマもパキスタンに次いで世界第4位の米輸出国となった。

〔参考文献〕玉城哲『稲作文化と日本人』1978,現代評論社

渡部忠世『アジア稲作の系譜』1983,法政大学出版局

D. G. グリック,飯沼二郎ほか訳『世界農業の形成過程』1977,大明堂

01