●スイス
ヨーロッパ スイス連邦 AD
スイス連邦【総説】中部ヨーロッパの連邦共和国。面積は4万1,288平方km,わが国の九州よりやや小さい。人口647万人(1983現在)。国土は西北部のジュラ山地と南部のアルプス山地,その中間の中央高地の3部分に分かれる。褶曲の著しいジュラ山地は比較的低く,多雨で,森林は繁茂し,牧草は豊かに成長し,林業と酪農が発達している。アルプス山地は国土の60%を占め,モンテローザ,マッターホルン,ユングフラウなどの峻峰がそびえ,登山のメッカをなす。アルプスの南斜面は温暖で,強い日射を受け,地中海的景観を呈する。中央高地は,中央をアーレ河が貫流し,東からボーデン湖,チューリヒ湖,ヌーシャテル湖,フィアヴァルトシュテッター湖,レマン湖が点在し,その湖畔に都市が発達し,スイス経済の中枢部をなしている。人種は中央高地にケルト系・ゲルマン系が住み,アルプス南斜面にはイタリア系住民が住む。ゲルマン糸はさらにアラマンネン族系とブルグント族系に分かれる。したがってスイスには,ドイツ語,フランス語,イタリア語,ラエティ=ロマン語の4種類の言語が行われている。宗教はローマ=カトリックとプロテスタント(ツヴィングリ派とカルヴァン派)に分かれる。スイス人の政治生活の基本はカントン(州)であり,それそれ強固な郷土愛と頑固な保守性によって培われた州が連合して,今日のスイスを構成している。
【先史時代のスイス】スイスの地に人類の生活が始まるのは,後氷期に入って,アルプスの氷河が後退し,森林がおい茂るようになり,中石器文化の狩猟をおもとする人々が棲息するようになってからである。やがて農耕と家畜を主とする新石器人が登場し,中央高地の湖沼を生活の場として,そこにいわゆる湖上住居を営んだ。住居の形態は,湖の岸からやや離れた水中に丸太を数列打ち込み,その杭の上に横木をわたし,それに丸太や板を敷きならべ,その上に方形の小屋を建てたものである。このような遺跡が,今日,数百も発見されており,先史鉄器文化後期は,ヌーシャテル湖畔の遺跡にちなんで,ラ=テーヌ文化と命名されるにいたっている。
【ローマ時代】スイスにケルト人が入ってきたのは前1000年ごろのことで,東部に住んだ者をラエティア人,西部のそれをヘルヴェティ人と呼んだ。ヘルヴェティ人は前58年,南ガリアに移動し,カエサル指揮下のローマ軍によってソーヌ河西方のビブラクテ(今日のオータン市)で撃破され,帰郷を余儀なくされた。スイス史上,明瞭に知られた最初の歴史的出来事である。ラエティア人は前15年ローマ人に征服され,その東に住むヴィンドリキ人と合わせて,属州ラエティア州を構成することになった。スイス西部はゲルマニア=スペリオルに包含されたが,両州とも南ドイツに進出してきたゲルマン人と対峙する最前線となり,いくたの軍団都市が設けられた。スイスの都市には,ローマの軍団都市に起源を負うものが多い。たとえばゲナヴァ(ジュネーヴ),レウソンナ(ローザンヌ),トゥリクム(チューリヒ),バジリア(バーゼル)などがそれであり,そこには囲壁がめぐらされ,神殿,劇場,浴場施設などが設けられ,ローマ文化がスイス各地に浸透した。
【民族移動と言語分布】4世紀末移動を開始したゲルマン民族のうち,スイスに侵入してきたのはブルグント族とアラマンネン族である。ブルグント族は443年ローマの同盟者となり,北方からジュネーヴ地方に移住し,ローマ支配の崩壊とともに,独立した王国を形成し,スイスの西半分とローヌ河流域を支配するにいたった。彼らはローマ人と融合し,言語的にもラテン語を受け入れ,今日のスイス西部がフランス語を使用する起源をなした。東スイスに入ったアラマンネン族は,反ローマ的気風をすてず,ゲルマン語を保持した。彼らはブルグント族を圧迫してアーレ河以西へ移動を余儀なくさせ,このときからアーレ河を境として東にドイツ語,西にフランス語という分布圏が形成された。スイス東南部のグラウビュンデン地方には,土着ラエティア人が多数残存し,ラエティア=ロマン語と呼ばれる独特の言語を残している。アルプス南斜面には,前述のようにイタリア語が使われている。
【封建時代】民族移動の一段落とともに,ゲルマン人のキリスト教化が始まる。7世紀中ごろアイルランドから渡ってきた聖ガールスは,ボーデン湖畔に住みつき,アラマンネン族の教化に努力したが,彼の遺骨のうえに,720年ザンクト=ガレン修道院が建てられた。この修道院はばく大な土地を領有し,立派な図書館を備え,東スイス一帯の文化の中心となった。布教の進展とともに,各地に司教座が置かれたが,スイス国内ではジュネーヴ,ローザンヌ,シオン,バーゼル,クールの地に置かれた。東スイスは,744年フランク王国に征服され,843年ヴェルダン条約によってフランク王国が分割されたときには,東フランク王国に属したが,アラマンネン族の部族的団結は強く,シュワーベン公国と名称は変わっても,反国王的姿勢を保った。西スイスのブルグント王国も534年フランク王国に編入されたが,長期にわたり半独立的地位を保持した。しかし1032年,ドイツ皇帝コンラート2世によってブルグント王国は神聖ローマ帝国に併合された。以後15世紀末にいたるまで,スイスの政治は中世ドイツ史の一環として展開されることになる。この間,スイスでも封建化がすすみ,多数の封建貴族が現れた。その最も著名な貴族にツェーリンク家がある。同家は南ドイツ,シュヴァルツヴァルトを本拠とする家であるが,11世紀末にはバーゼル,チューリヒ,ベルンなどを中心とする北スイスに広大な領地を所有した。1218年同家が断絶すると,その領地の相続者としてハプスブルク家が現れ,スイス独立の機運もいよいよ熟してくる。
【スイス誓約同盟の結成】13世紀は封建領主制の動揺,農民の自由化の時期であるが,とくにスイスにとっては,サン=コタール峠の開通(史料初見は1293年)のときである。この峠はミラノをまっすぐ北上してスイスの中央を貫通するもので,これを経由する商業・運輸量は当時としてはばく大なものがあり,また利益も大きかった。スイス誓約同盟の源をなすウーリ,シュヴィーツ,ウンターヴァルデン3州の盟約は,まさにこの峠を媒介として結ばれたものである。上記3州の農民は,原始ゲルマンの自由民の伝統をよく保持しており,13世紀中ごろ国王から自由特許状を得ているが,ハプスブルク家がこの地の領有権を得たときも,農民の自由を尊重する約束をした。しかし,同家出身でドイツ国王となったルドルフ1世が1291年死去し,圧制的なその子アルブレヒトが家領オーストリアを相続すると,同年8月3州は「永久同盟」を結んだ。これがスイス誓約同盟の起源である。この「永久同盟」の結成と切り離せない物語として,テル伝説がある。シラーの劇作『ウィルヘルム=テル』によって広く知られるようになったこの自由な闘士は,今日その史実性について疑問視されているが,圧制者に対する森林州農民の闘争を人格化したものと推定される。
【独立戦争】誓約同盟とハプスブルク家との武力衝突は,1315年秋におこった。オーストリア公レオポルト1世は,大軍をシュヴィーツに侵入させたが,11月15日モルガルテンの戦いで封建騎士軍は農民軍に敗れ,敵を乱し潰走した。しかし,ハプスブルク家に対して,人口も少なく,資源も乏しい森林州が自衛を続けていくためには広い同盟者を必要とした。こうしてルツェルン(1332),チューリヒ(1351),ツーク・グラールス(1352),ベルン(1358)が加盟し,8州同盟が成立した。オーストリア軍は1386年再攻してきた。7月9日,ルツェルンの西北ゼムパッハで騎士軍は歩兵密集団の突撃にあって潰滅した。このときヴィンケルリートのアルノルトという男が,両腕で数人の敵をかかえこみ,身を貫かれつつ,「ここから進め!」と叫んだという。
【13州同盟】その後,ゾロトウルン,フリブール(1481),バーゼル,シャフハウゼン(1501),アッペンツェル(1513)が加盟し,誓約同盟は13州に拡大された。この体制は18世紀末まで続く。この同盟に対してスイスという共通の名称が使用され始めたのは,15世紀半ばオーストリア側からであったといわれる。15世紀のスイスが直面した危機は,西方に新たに勃興してきたブルゴーニュ公国の脅威であった。ブルゴーニュ公シャルル突進侯が公国の拡張のためアルザス=ロレーヌ地方の獲得をはかり,スイス北西部を脅かしたからである。スイス側ではベルンを中心として迎撃体制をとり,こうしてブルゴーニュ戦争(1474〜77)がおこった。1476年3月2日,ヌーシャテル湖畔グランソンの戦いは,戦わずしてブルゴーニュ軍が潰走したが,同年6月22日,ムルテンの戦い(ベルン西方)では激烈な全面戦争となった。勝利を得たのはスイス兵の断乎たる勇気であった。シャルル突進侯は1476年,ロレーヌ侯の首府ナンシーを包囲中,3度スイス兵の攻撃を受け,乱戦のなかで敗死した。
【帝国からの分離】スイスの名声が全欧にとどろくにつれて,南ドイツの農民はその解放のモデルをスイスに求めるようになった。その動きを抑えるべく,1499年2月,オーストリアを中心とする南ドイツ諸侯軍はスイス侵攻の最後の試みを決定する。シュワーベン戦争と呼ばれる戦いである。一進一退ののち7月22日,ドルナッハの戦い(バーゼル西方)で領主軍は大敗を喫し,9月バーゼル和約が成立する。これをもってスイスは完全にドイツ帝国から分離することになり1648年,ウェストファリア平和条約でスイスの独立は正式に承認された。16世紀に入ると,スイスはイタリア側の領土拡張政策に乗り出した。これはサン=ゴタール峠の南側の商路を確保するためである。1503年,森林州はベリンツォーナ,ロカルノ,ルガーノ,ティチーノ南部を占領した。しかし,スイスの北イタリア進出はフランスに危惧を抱かせ,フランソワ1世は大軍をもってスイス抑制の行動に出た。1515年9月13日,マリニャーノの戦いでスイスは初めて惨敗を喫し,スイスの膨張主義はこれ以後,影をひそめた。
【ツヴィングリの宗教改革】16世紀は宗教改革の嵐が全欧を吹き荒れる。スイスの宗教改革はツヴィングリ(1484〜1531)によってチューリヒで開始された。彼はマリニャーノの敗戦に大きな衝撃を受け,給金と引き換えに生命を売る傭兵制度を廃止しようと決意した。ルターに遅れること6年目の1523年1月29日,ツヴィングリは「67カ条」の改革案を提議し,チューリヒ市参事会は公開討論会の結果,これを承認した。続いてベルン,バーゼル,シャフハウゼン,ザンクト=ガレンが改革派となったが,これに対してウーリ,シュヴィーツら森林州はカトリックに固執し,新旧両派の対立は1531年頂点に達し,カッペルの戦いとなった。チューリヒは敗れ,戦死者のなかに,ツヴィングリの姿もあった。
【カルヴァンの宗教改革】ツヴィングリの事業はカルヴァンに受け継がれた。ジュネーヴは1815年までスイス連邦に加入しなかったが,つねに密接な関係を保っていた。この都市でカルヴァン(1509〜64)が改革に着手したのは1536年のことである。彼は神の絶対的権威を説き,人間が神の栄光を実現する手段になりきること,そのために全市民が峻厳な禁欲的生活に服従することを求めた。この強制的政策は市民の反感を招き,彼は一時追放されるが,1540年再び市に帰り,教会改革に全力をつくした。彼を含めた5人の牧師と12人の平信徒からなる長老会が設置され,長老会はジュネーヴ市全体の政・教の中枢機関として,市民生活を隅々まで監督し,ここに神裁政治(テオクラシー)が実現した。この地からカルヴァンの教えは,フランス,オランダ,イングランド,スコットランドヘと普及していったのである。
【スイス傭兵】17〜18世紀を通じて,スイスでは各州各様の政治が行われていた。ウーリ,シュヴィーツなど森林州ではランスゲマインデ(人民集会)と称する民主政治が維持され,役人はすべて選挙で選ばれ,重要事項は成年男子の野外集会における挙手によって採決された。ベルン,フリブール,ゾロトゥルン,ルツェルンではごく少数の都市貴族による門閥支配,チューリヒ,バーゼルなどではギルド市政が行われていた。この時期の特徴は,諸外国が争ってスイス兵を傭兵として雇ったことである。とくにフランスはスイス傭兵を重用し,ルイ14世の時代には2万人のスイス傭兵が常備され,年平均500万リーブルの契約金が支払われた。スペイン継承戦争に際しては,5万人のスイス兵がフランス,オランダ,オーストリア,サヴォイの陣営に別れて戦ったといわれる。スイス傭兵が全面的に廃止されたのはフランス革命のときである。
【ヘルヴェティア共和国】フランス革命は,スイスでは賛否両論のうちに迎えられたが,1797年ナポレオンがオーストリアとのカンポ=フォルミオ和約によって北イタリアを支配下に置くと,彼はフランスとイタリアの最短路(大サン=ベルナール峠)を確保すべく,ヴォー地方の占領を意図した。翌1798年3月反フランス派の拠点ベルンがナポレオン軍に敗れ,同4月フランスのあっせんで「ヘルヴェティア共和国」という中央集権国家が誕生する。5人の総裁,これを補佐する各大臣からなる中央政府が組織され,各州はこれまでの独立性を失い,単なる地方行政単位となった。またこのとき,法の前の平等,信仰・言論の自由,封建的特権の廃止なども宣言された。しかし,フランス軍による徴発・課税・略奪のため,親フランス熱は急速に冷却し,加えるに1799年,第2回対仏同盟戦争がスイスを舞台として展開したため,共和国の世論は動揺を重ねるばかりであった。
【ナポレオンの調停法】こうした状態をみたナポレオンは,直接介入を決意し,1803年各州代表をパリに集めて「調停法」を手渡した。それによると,13州に新たに6州(ザンクト=ガレン,グラウビュンデン,アールガウ,トゥールガウ,ティチーノ,ヴォー)が加えられて19州となる。この19州が連邦を構成するが,各州は再び主権を回復する。中央機構としては,各州から選出された代議員により連邦議会がつくられるが,大きな州は2票を投じる権利をもち,議会は指導的な6州(フリブール,ベルン,ゾロトゥルン,バーゼル,チューリヒ,ルツェルン)のどこかで開かれる。この指導的6州はまわりもちで,1年任期のラントアンマン(元首)を選出する,というのである。これによってスイスの政情は一応の安定をみたが,しかし,ナポレオンの介入の目的は,スイスの人的資源の確保・利用というところにあった。スイスは1万6,000人の志願兵を供給することを義務づけられたのである。
【永世中立の承認】1813年,ライプツィヒの諸国民解放戦争でナポレオンが敗れるや,「調停法」体制は瓦解した。同年末,チューリヒ市長ラインハルトは連邦議会を召集し,長い討議ののち,「調停法」の結果である19州を維持し,さらにヴァレー,ヌーシャテル,ジュネーヴを加えて22州とするという連邦協約が採択された(1815)。この協約は基本的には保守派の主張に沿ってつくられたものであるので,22州の主権は,軍隊に関する事項を除いて全面的に回復されたが,他方,居住・営業・信仰の自由は否認されている。この時期,とくに注目しなければならないのは,外交上の成果である。パリの第2会議に出席したスイス代表ピクテ=ド=ロシュモンは,長い困難な交渉ののち,レマン湖北側に沿った細長い地帯をフランスから割譲させて,ジュネーヴと他の州とを陸続きとし,さらに列強を説得して「スイスの永世中立と領土保全」を保障する国際条約を締結させることに成功したのである。
【「新生」の時代】19世紀前半,スイスにも資本主義の波が及んできた。しだいに機械が導入され,繊維産業・時計製造業が急速に発展をとげ始めたが,その反面,州ごとに設けられている関税,種々雑多な通貨・度量衡・郵便制度に悩まねばならなかった。ここに国内改革の声が上がってくる理由がある。1830年パリ7月革命を契機に,スイスでも弁護士,医師,牧師などの知識階級の呼びかけによって,1830年秋,いたるところで改革を求める集会が開かれた。翌1831年には自由主義的な都市州(チューリヒ,ベルンなど)で新憲法が制定され,普通選挙による大評議会を最高立法機関と定め,基本的人権を承認した。当時の人々はこれを「新生(レジュネラシオン)」と呼んだが,新政府が第1に着手した仕事は教育の刷新と充実であり,チューリヒ大学(1833),ベルン大学(1834)が設立されたのである。
【連邦の危機】こうして自由主義は進展をみたが,国家の中央集権化の問題では大きな抵抗にあった。森林州は州自治の堅持を有利と考え,とくにサン=ゴタール峠の関税収入の確保は森林諸州財政にとってかけがえのない重要性をもっていたからである。1841年,カトリック州のルツェルンが初等教育の監督権をカトリック教会にゆだね,しかも反動的ジェスイット会士を指導者に招いたことから,連邦内の対立は頂点に達した。急進派は2回にわたってルツェルンを武力攻撃し,これに対抗して1845年12月,カトリック諸州(ルツェルン,ウーリ,シュヴィーツ,ウンターヴァルデン,ツーク,フリブール,ヴァレー)は相互防衛条約を結んだ。いわゆる分離同盟である。しかも同盟はメッテルニヒやフランス王ルイ=フィリップに援助を求めた。1847年7月,連邦議会は分離同盟の解散を命じ,全スイスの自由と統一を貫くことを決議した。同年11月,デュフール将軍に指揮された連邦軍10万は,外国の干渉を封じるため敏速に行動し,4週間たらずで「分離同盟戦争」を終結したのである。
【連邦憲法の制定】1848年スイスは,ヨーロッパの動乱をよそに連邦憲法の制定を急いだ。新憲法は同年秋採択された。それによると,スイスは中央集権国家と国家連合との中間にある政治体制をとり,主権は連邦国家と州とのあいだに分割保有される。外国との同盟や条約を締結する権限,宣戦講和の権限は連邦国家だけがもつ。これまで州の主権下にあった関税も連邦国家のもとに移管され,郵便,通貨,度量衡も統一される。教育については,すべてにゆだねられる。法の前の平等,居住,信仰,思想,言論,出版,営業の自由も保障された。立法部は2院制をとり,アメリカの制度にならって,普通選挙によって選出され国民全体を代表する国民議会と州を代表する全州議会からなる。議会は連邦内閣,連邦裁判官を指名し,首都はベルンにおかれることになった。
【鉄道と労働運動】スイスの鉄道は1847年,チューリヒとバーデン間に開通したのに始まるが,スイスの鉄道史のうえで画期的なのは,サン=ゴタール=トンネルの建設である。スイス,イタリア,ドイツの出資により1873年に着工し,全長15km,1882年に開通したが,当時の技術水準からいえば前代未聞の難工事であり,246人の儀牲者を出した。続いて1906年,シンプロン=トンネルも開通して,南北ヨーロッパは鉄道によって連絡することになった。サン=ゴタール=トンネル着工とともに,鉄道の国有化論争が燃えあがったが,1898年,鉄道全体の電化を定めた国民投票により国有に決定した。19世紀後半からスイスの繊維産業,時計・機械製造業は大きな発展をみるが,それに伴って労働運動もおこってきた。1834年,ジュネーヴに,民主主義による社会問題の解決,労働者の教育をめざすグリュートリ協会が設立され,1868年には3,000人の建築労働考が賃金引き上げのため最初のストライキを行った。1870年には社会民主党が結成され,第1インターナショナルに加盟したが,共産主義思想そのものはスイスには深く浸透しなかった。むしろスイスはレーニンら革命家たちの亡命地として著名になった。
【光栄ある中立】第一次,第二次世界大戦を通じて,スイスは中立を堅持した。戦争が激化すると,交戦国はたがいに経済封鎖を強めたので,食糧供給および原料輸入は途絶し,スイスはきわめて困難な生活状態におかれた。大戦後成立した国際連盟の本部はジュネーヴに置かれたが,スイス自体の加入については,激論の末ようやく認められた。しかし,連盟の1員としての義務と中立は両立しがたく,1938年ドイツのナチス政権がオーストリア併合を行うと,スイスは国際連盟理事会に働きかけて,中立主義の原則を再確認させたのであった。第二次世界大戦後の国際連合には,スイスは加入していない。スイスは長年の中立政策によって,国際的諸機関の理想的設置場所となった。おもなものをあげれば,ジュネーヴの人アンリ=デュナンの提唱により設立された万国赤十字社(1864),万国電信電話局(1865),万国郵便連合(1878)など120余にのぼる。国際連合の事務局がアメリカヘ移ったのちも,その専門機関の多数−−たとえば,国際教育局,世界保健機関,国際労働機関など−−は従来通りジュネーヴに置かれている。
【思想・文学・芸術】スイスを代表する思想家としては教育家ペスタロッチ(1746〜1827)があげられる。彼は貧児,孤児の教育事業のために苦闘し,スイス人の誠実性の模範となるとともに,世界の教育改革の出発点となった。文学者ではゴットフリート=ケラー(1819〜90)が優れ,彼の作品『緑のハインリヒ』は巧まざるユーモアと人間性に対する哀愁にみちた理解を示している。またヨハンナ=スピリの『ハイジ』は世界的愛読書である。画家としては新古典派のベックリン,歴史画のホドラーに特色がある。歴史家としては『スイス誓約同盟史』を書いたヨハネス=ミュラーが有名。『イタリア・ルネサンスの文化』など不朽の名著を書いたヤコブ=ブルクハルトは,バーゼル生まれで,バーゼル大学教授として生涯をおくった。
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