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●隋 ずい

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 中国,北周の武将で外戚でもあった楊堅(文帝,在位581〜604)が581年(開皇1)に創出,息子の煬帝(ようだい,在位604〜618)と2代38年間つづき,618年(大業14)に唐に代わられた王朝。隋の名は,楊堅が北周末に封ぜられた随王の随から,政権の短命を連想せしめるチャク※注1※(走の意)を削除したことに由来する。

【文帝の時代】即位後,文帝は,領土の統一に全力を傾け,587年(開皇7)に江陵(湖北省)の後梁を併合した上で,589年(開皇9)南朝最後の陳に攻め入り,2世紀末以来の分裂に終止符をうった。これに並行して統一王朝としての体制確立にむけて着々と手をうった。その最初に手がけたのは,三省六部制以下の中央官僚機構の整備,禁軍十二衛府制の発足(のち十四衛府,十六衛府と拡大),これに関係する地方軍府の充実と軍事権の中央への回収,律令法体系の整備(開皇律令),首都大興城(唐の長安城)の造営など,体制全体の確定にかかわる仕事であった。この時期,魏晋南北朝時代を通じて貴族制の拠りどころとなった九品官人法(九品中正制)に代わる科挙制を始めたことも注目される。門地にとらわれずに広く人材を確保することをめざすこの選抜制度は,以後着実に発展し,中国社会全体にはかりしれない影響をおよぼした。こうした先をみすえた体制づくりは,地方行政をめぐる改革のなかにもみることができる。すなわち長期にわたる分裂のなかで,機構が肥大化また細分化して,地方分権,反中央の温床ともなっていた州郡県制の現状にたいして,隋は,郡を廃止して州県二段階制に改めた上で,地方官には中央吏部による任命制をとって,現地任用の辟召(ヘきしょう)制を廃止,あわせてすでに辟召されていた地方官の有名無実化をはかった(卿官廃止)。また地方官の任期や,本籍地回避などの服務に関する厳格な規定を設けた。地方行政のあり方はここにその様相を一変し,中国地方行政史上最も大きな転機を画することになった。さらに末端の郷村社会には,貌閲策(首実験)などを用いた戸籍調査の徹底,北魏以来の三長制を改めた郷里制(500戸の郷,100戸の里の組織)の強行などによって統制を強め,その一方で災害時における相互救済のための義倉(社倉)を設け,再生産の場の確保にもつとめた。そうした結果,隋代の戸口の把握は,およそ900万戸,4,600万口と飛躍的増大をみるにいたった。ところで,これら中央から地方末端におよぶ改革は,それ以前からの体制の整備一元化にむけた取り組みの延長上に位置づけられるが,しかしそれは単なる旧来の踏襲ではなく,いったん隋の新しい方針のもとに整理統合された上で,系統的かつ集中的に実施されたのであった。かくしてここに,一つの完結した体制が成立することになったが,こうした文帝のもとでのさまざまな政策の立案・実行に携わったのは,高潁,蘇威らの人物に代表される官僚たちであった。彼らは,隋室と同じ西魏=北周の漢人と胡人(とくに鮮卑系)協力体制のなかから出身し(「関隴集団」と通称),優れた現実感覚,文武両道にわたる実務的能力をふまえ,隋の指導層を形成した。門閥を誇り,時代の変化に即応する能力に欠ける旧貴族層は,九品官人法の撤廃によって拠りどころを失い,地方行政の改革を断行されて地方政治の場から排除された上に,これら新官僚(新貴族)の台頭を受けて,その基盤を確実に奪われていった。隋代は,旧門閥貴族と新官僚貴族との大きく入れかわる時期にもあたっていたといえよう。このように隋の統一事業の進歩は,対外関係の面にも大きな変化を及ぼした。とりわけ北から北朝諸王朝を圧迫しつづけたトルコ族突厥(とっけつ,東突厥)は,しだいに強まる隋の軍事的圧力,一方での隋室の女の降嫁(和蕃公主)を利用した離間策によって勢力を弱め,ついに啓民可汗にいたって隋に屈服を余儀なくされた。しかしそうしたなかにありながら,朝鮮半島のツングース系の高句麗(こうくり)だけはなお隋の傘下に入るのを拒みつづけ,その東アジアから北アジアの全域の領有をめざす野望の前に立ちはだかったのである。

煬帝の時代】文帝をついだ2代目煬帝は,長兄楊勇との激しい後継者争いの末に帝位についたが,こうした権力争いにみせた権謀術数家的側面と,その後の事跡を通して,古来他に比肩するもののない暴君として喧伝されてきた。彼は即位後ただちに,東都洛陽城の再建,北は北京付近のタクグン※注2※から南は江南の杭州にいたる大運河の開さく(北から通済渠,永済渠,カンコウ※注3※,江南河)など一連の大土木事業を強行した。対外的には突厥へのたび重なる行幸,吐谷渾(とよくこん)などへの出兵,加えて高句麗への3次にわたる大征討行動を展開し,さらにそこに際限ない遊興奢侈が加わった。こうして文帝時代の蓄積を費消し,農民には苛酷な収奪,動員を強い,その結果各地に興起した民衆の反乱によって滅亡へと追いこまれた。このように煬帝の政治は,暴政としての面が強く意識されるわけであるが,反面それは本質的には文帝の踏襲,そして徹底化であったことも事実である。法体系(大業律令)とそれにもとづく官制・軍制・税制など制度面の整序がいっそう進み,皇帝を中心とする中央集権制が完成の域にまでおし上げられた。また大運河の開さくにしても,政治・経済・文化の各分野での南北一体化を追求する隋にとって,いずれ困難をおして着手されるべきものであった。対外活動でも,文帝以来の方針を受けて,吐谷揮を討って西方へ勢力を伸ばし,あわせて西域諸国との関係改善につとめ,南は林邑(りんゆう,ヴェトナム)や流求(台湾)へも進出した。しかも遠く海を越えた倭(日本)からは,文帝の600年(開皇20,推古8)に最初の使者があったあと,607年(大業3)には〈日出ずる処の天子,書を日没する処の天子に致す,恙無きや,云々〉で有名な聖徳太子の国書を携えた第2次遣隋使(小野妹子)が派遣されている。こうして残るは,文帝からもち越された高句麗問題であったが,しかし高句麗側の総力をあげた執拗な抵抗は,その問題の解決を阻み,そのことが隋の崩壊を決定づけたのである。他方,農民についてみると,煬帝下で苛烈な支配を受け,〈安居すれば凍餒にたえず〉の状態から反乱へと決起したといわれるが,だがこうした状況は,すでに文帝期の戸口検括,郷村統治による抑圧から始まっていたといってもよい。したがって農民たちの決起は,直接には煬帝の暴政への反抗としてあるが,さらには長い抑圧の過程で醸成された反隋反中央集権の意欲につき動かされたものであったとみることができる。隋末唐初の10年という長期間,ほぼ全土をまきこんで,数百にのぼる厖大にして激しい蜂起を生んだのも,こうしたことに起因する。しかしこれら諸反乱も,李密や竇建徳(とうけんとく),劉黒闥などの農民的色彩の濃い集団をおし出したものの,最終的には一つにまとまりきれず,太原(山西省)にあって強固な兵力と官僚組織を有し,広汎な階層の支持をうけた唐李淵集団に屈服させられた。唐も隋と同じ「関隴集団」の系列に属しており,農民の行動は結局具体的な成果を生むまでにはいたらなかったが,とはいえ唐の支配のあり方を大きく規定することになり,またそこに奴賊(ぬぞく)や弥勒教徒,仮父子関係や任侠的結合関係など民衆世界の多様な側面を浮き彫りにしたのであった。

【隋代の文化】隋代の文化は,期間が短かくまた政治が優先したこともあって,あまりみるべきものをもたない。ただ仏教だけは,隋室そのものが熱心な帰依者であり,また政権の正当化,人心の収攬のための手段として積極的に保護され,北周武帝の廃仏による壊滅的打撃からいち早く復興し,文帝期に寺院3,700余,僧尼23万と記録されるほどの隆盛をみた。その間,教理面で外来的宗教から中国仏教へ脱皮が進み,大乗仏教としての浄土教の新展開があり,天台宗のチキ※注4※,三論宗の吉蔵ら高僧名僧が輩出し,また素朴ながら量感溢れる仏像が多く彫られた。反面,仏教教団への統制も強まり,信行(しんぎょう)の三階教は反権力性を内包するとして徹底的に弾圧された。このほか,隋代では,ウブンガイ※注5※による高度な建築技術が建築史上で特筆され,陸法言が撰した『切韻』は音韻研究の始まりをなし,さらに経書を編成した文中子(王通)の存在も忘れることはできない。

〔参考文献〕浜口重国「隋の天下統一と君権の強化」『秦漢隋唐史の研究』下,1966,東大出版会

宮崎市定『隋の煬帝』1965,人物往来社

気賀沢保規「隋末唐初の諸叛乱」東洋文庫

谷川・森編『中団民衆叛乱史1』1978,平凡社

アーサー=F=ライト,布目・中川訳『隋代史』1982,法律文化社

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