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●親鸞 しんらん

アジア 日本 AD1173 平安時代

 1173〜1262(承安3〜弘長2)浄土真宗(一向宗)の開祖。範宴・善信・綽空などと号した。藤原氏北家に連なる日野氏の生まれといわれている。8歳にして母を失い,9歳のとき出家して東山青蓮院の慈円の坊舎で得度,比叡山に上山,堂僧として常行堂につとめ横川に住んだといわれる。常行堂では口に阿弥陀仏の名を称え,心に阿弥陀仏を念じながら阿弥陀仏の周囲をまわる,天台止観行四種三昧の一つ,常行三昧を行ずる念仏行を修した。しかし29歳のとき,貴族の権力と結びつき,最澄の理想とかけ離れてしまった叡山は,もはや真実の道を求めるべき場所ではないと悟り,山を下って聖徳太子の創建になる六角堂に参籠し,太子の本地仏と伝えられる本尊救世観音に祈った。95日にして東山吉水の法然(源空)のところへいくべしというお告を得た。ときに法然69歳。やはり叡山を下って“念仏専修”を唱え,浄土宗を開いてからすでに26年を経過,老若男女・貴賤の別なく連日彼のもとに法を聴くため多くの人が集まっていた。親鸞も〈たとひ法然上人にすかされまいらせて,念仏して地獄におちたりとも,さらに後悔すべからずさふらふ〉(『歎異抄』)というほど法然に心服し,専修念仏に励んだ。しかしその後,教団の勢力が増大するにつれ南都北嶺の旧仏教側から危険視され,各層の帰依者の問題や教義上の問題などが重なって,1204年(元久1)には比叡山延暦寺の衆徒が,1207年(建永2)には奈良興福寺の僧侶らが法然の念仏集団の非を強く朝廷に訴えたため,ついに専修念仏停止の命が下され,死罪4名,流罪8名が申し渡され,法然は土佐に,親鸞は越後に流された上,さらに僧の身分を奪われて還俗し,藤井善信と名乗らせられた。ここに親鸞は〈爾(しかれ)ばすでに僧にあらず俗にあらず。この放に禿(とく)の字をもて姓とす〉(『教行信証』)といい,“愚禿”と称した。そしてまもなくこの地の豪族,三善氏の娘,のちの恵信尼と結婚し,子女をもうけた。けだし浄土真宗の僧侶が非俗非僧といわれるゆえんである。やがて5年の歳月が流れ,1212年(建暦1),順徳天皇から勅免の沙汰が下ったが,親鸞は都には帰らなかった。さらに2年越後で送った後,信州から上野をへて常陸国(ひたちのくに)に入り,この地を根拠に,念仏専修の教えを関東一円にひろめ,その教線は奥にまで及んだ。恵信尼によると,途中上野国左貫(さぬき)というところで,飢饉で苦しむ人々のために三部経一千部の読誦を思い立ったが,如来の本願にすがる念仏専修以外に何の道があるかと思い直し,中止したと伝えられている。1224年(元仁1)常陸国稲田に滞在中,主著『教行信証』の執筆にとりかかった。この常陸滞在中,多くの有力な弟子が生まれた。彼らは農民を主に地域に信者の団体を結成し,“門徒”と呼ばれた。20年余を関東で過ごしたが,1233年(元福1)ころ,帰洛の途につき,途中近江国木部に綿織寺を建立。京都に入ってからは岡崎,吉水,五條西洞などを転々とし,おもに著作に専念するとともに〈よき人〉法然の墓の守りにあたった。しかしこの間,その子の善鸞は東国教団を手中に収めようとして,自分だけが親鸞の本意を引き継いでいると自称し,それまでの親鸞の教えは真実ではないと宣伝して,関東一円の門徒たちを動揺させ,問題はついに鎌倉幕府にまで達したため,親鸞は1256年(建長8),84歳の折,義絶している。恵信尼もまた越後の実家へ帰り,晩年は末娘の覚信尼が身辺の世話をした。1262年(弘長2)11月28日,親鸞は京の坊舎で念仏を唱えつつ静かに息を引き取った。遺弟達は鳥辺野で荼毘,大谷に葬った。年90歳。その著作は一貫して阿弥陀仏の本願に経る念仏専修の他力易行門を説いたもので,師の法然よりさらに徹底純化したものである。親鸞自身,自分は1人の弟子ももたなかったと称しているにもかかわらず,浄土真宗の“開祖”といわれるゆえんである。おもな著作に『愚禿鈔』,『教行信証』正確には『顕浄土真実教行証文類』,『浄土文類聚鈔』,『三帖和讃』,語録に『歎異抄』,その他,書簡類。古い伝説に『親鸞上人絵伝』がある。

〔参考文献〕『日本仏教基礎講座5 浄土真宗』1973,雄山閣

『日本の思想3 親鸞集』1969,筑摩書房

千葉・細川編『日本名僧論集7 親鸞』1983,吉川弘文館