●神武天皇 じんむてんのう
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『古事記』および『日本書紀』では,第1代の天皇としてあげる。彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と呼ばれ,神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)(神日本磐余彦)と称す。父は鵜葺草不合命(うがやふきあえず)で,母は「海童(わたつみ)の少女」といわれた玉依姫(たまよりひめ)であった。『古事記』では,「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」とか「豊御毛沼命(およみけぬ)」ともいわれたと記しているし,『書紀』では「狭野尊(さぬのたける)」と称しているので,御毛(穀物の美術)や狭(稲)の名は穀霊神的性格を意味するものであろう。長じて,兄の五瀬命(いつせのみこと)と議り,東征を決意して日向を出発した。そして豊国の宇沙(うさ),筑紫の岡田宮,阿岐(安芸)の多祁理(たけり)宮・吉備の高島宮を経て難波に向った。難波に上陸して,流れを朔って,河内の草香邑(くさかのむら)に出膽駒山を越えようとした時,長髄彦の軍に孔舎衛坂ではばまれ,苦戦し,兄の五瀬命は傷を負い,紀の国の竈(かまど)山で死んだ。この敗戦の原因は,〈日神の御子として,日に向いて戦う〉ことにありとして,遠く海上を迂回して,熊野に再び上陸して大和に赴くのである。熊野では,丹敷戸畔(にしきとべ)という土豪を誅したが,その土地神の毒気にあって,気力を失い倒れた。そのとき,熊野の高倉(ぐらし)下という人物が,武甕雷神(たけみかずちのかみ)より授かったという霊剣を献ずる生気をとりもどしたという。そして天より遣わされた八咫烏(やたがらす)を先導し,大伴氏の祖・田臣命(道臣命)の率いる大来目(おおくみ)の軍隊をたてて,山を越えて,大和の宇陀に入った。宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を斬り殺し,弟宇迦斯(おとうかし)を従え進撃していった。途中,兄師木(えにしき),弟師木(おとしき)を打ち破り,遂に再び長髄彦と対戦する事になった。しきりに戦ったが,なかなか勝利を得ることができなかったが,忽然として日が曇り氷雨(ひさめ)が降ってきた。そこに金色の鵄が飛来し,弓の弭(やはず)にとまり光輝を発したので,長髄彦の軍兵は目をあけられず,戦力を失った。長髄彦は殺され,長髄彦の妹を娶っていた饒速日命(にぎはやひのみこと)は降った。この饒速日命の子孫が物部氏であるという。畝傍山の東南の地,橿原(かしはら)に宮居を造り,辛酉の年正月一日に,即位した。これが神武天皇である。『書紀』には〈始馭天下之天皇〉と称している。辛酉の年に国家創業の年に当てたのは,いわゆる辛酉革命の思想によるものであろう。また正月一日を即位の日とするのは,万物生育の初めにあたるという観念にもとづくものであろう。これが史実であるかを論ずるよりも,日本国家の起源をものごとが大きく変わるとされた時期に合せた古代人の思惟方法に注目すべきであろう。天皇は即位すると美和の大物主神が三島溝咋(みしまのみぞぐい)の娘,勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)に生ませた富登多多良伊須岐比売(ほとたたらいすきひめ)を娶り,皇后とした。大物主神が丹塗矢(にぬけ)に化して,勢夜陀多良比売の富登(女陰・ほと)を突いて妊ませた子と伝えている。皇后は,神八井耳命(かむやいみみのみこと)と,神渟川耳尊(かむぬかわみみのみこと)の2人の皇子をもうけている。天皇は東征の軍功を賞し,道臣命に築坂邑(つきさかのむら)を宅地として賜えた。現在の橿原市鳥屋町付近である。また大来目を畝傍山の西に居を与えた。ここを来目邑(現在橿原市久米町)というのは,そのためである。弟宇迦斯(弟猾)は猛田邑が与えられ,猛田県主に任ぜられた。菟田主水(うだもひとり)部の祖である。弟志木(弟磯城)は磯城(しき)県主に任ぜられ,八咫鳥も賞せられ,その子孫は葛野主殿県主部(かどののとのもりあがたぬしべ)となったという。即位して4年目に,天皇は霊畤(まつりのにく)を鳥見山(桜井市外山)に立て,皇祖天神を祭り天下泰年を感謝した。31年の夏4月に,腋上(わぎがみ)のホホマノオカ※注1※(ほほまのおか・御所市掖上)に登り国見し,日本を秋津洲の国と称したという。『書紀』によると,即位して76年目で天皇は崩じたが,時に127歳であるという。天皇が崩じた後,皇位継承をめぐって争いがあり,庶民の手研耳命(たぎしみみのみこと)を殺して皇位についたのは,神渟川耳尊であった。兄の神八井耳命は,恐れて手研耳命を射殺することが出来ず,勇を振って庶兄を殺した弟の神渟川耳尊が皇位につき,綏靖天皇となるのである。神八井耳命は,天皇にむかって〈汝の輔となり,神祗を奉典せん〉と申し忌人となったという。つまり司祭者となったのである。神八井耳命の子孫は,多臣・火君・阿蘇君らの18氏であるという。さて以上の神武東征も4世紀後半から5世紀初めのころ九州の勢力が大和に入って政権を奪取した物語を背景としたものと考える学説もあり,また同じく“初国知らしし天皇”と称された崇神天皇を理想化したものという説もあり,今後検討を加えるべき問題が少なくない。〔参考文献〕空井義雄『神武天皇』
肥後和男『神武天皇』
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