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●人民戦線 じんみんせんせん

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 1930年代中ごろ,イタリアやドイツをはじめとする諸国のファシズム勢力拡大に伴う脅威に対抗するために共産党のイニシアチブのもとに結集した民主主義勢力をさす。共産党を中心とする革命勢力は社会民主主義諸党だけでなく,一部の自由主義者とも提携し,結束をはかろうとした。この戦術は,国際共産主義運動の組織として知られたコミンテルン(第3インターナショナル)が1935年7月25日から8月20日までモスクワで第7回大会を開き,ブルガリアのディミトロフやイタリアのエルコリ(トリアッティのこと)らの提唱によって公式に承認された。新方針は,社会民主主義との協力を拒否することを決めた1928年の第6回大会の方針からの一大転換を意味する。労働者,農民,小市民,知識人がファシズムに対抗して連合したため,1936年2月の総選挙に勝利したスペインではアサーニャ(Manuel Azana)を首班とする人民戦線内閣が発足,ついで同年5月の総選挙でフランスでも人民戦線の諸党が大勝し,社会党のレオン=ブルム(Leon Blum)の人民戦線内閣が誕生,共産党のモーリス=トレース(Maurice Thorez)が閣内協力を進めた。中国でも共産党が1935年8月1日に立場の相違を越えた抗日民族統一戦線結成を呼びかけ“八・一宣言”を提唱したが,1936年12月12日の西安事件を契機として,国民党の蒋介石も共産党の毛沢東や周恩来との協力路線の採択に踏み切り,第二次世界大戦末期までつづく第2次国共合作への道に進んだ。スペインとフランスの人民戦線内閣は短命に終わった。スペインでは1936年7月,フランコ将軍の「右翼」民族主義勢力が大資本・地主・教会の支持を受けて反乱をおこし,ドイツ,イタリアの後援を頼んで3年にわたる激しい内戦を展開,1939年3月の首都マドリードの陥落を最後に人民戦線政府が崩壊,それ以後フランコの独裁時代に入った。フランスの人民戦線も安定せず,1938年4月,第2次ブルム内閣の退陣とともに瓦解し,それ以後ドイツに対する宥和のムードが高まった。ヘミングウェイやジョージ=オーウェルらの文学者も人民戦線に参加したが,夢と希望は砕かれた。第二次世界大戦後はイタリア共産党が,さらに広い立場からの人民戦線戦術を提唱した。

〔参考文献〕海原峻『フランス人民戦線』1967,中央公論社

斉藤孝編『スペイン内戦の研究』1979,中央公論社