●新補地頭 しんぽじとう
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承久の乱ののち,鎌倉幕府が没収した朝廷方の土地に,新たに補任された地頭職の名称。地頭の権限は,[1]年貢徴収権,[2]土地管理権,[3]警察権,[4]地頭権の得分権(利益)であった。それ以前の地頭を本補地頭という。その権限と収益について旧来の慣習に従わない場合には,11町に1町の給田と段別五升の加徴米を備えていた。そして下地の中分を禁止した。厳密にいうと新補地頭は“新補率法”と呼ぶ法廷得分率による地頭という。地頭とはもともと厚頭などということばと同じように,現地をさすことばであって,転じて地頭人,すなわち平安時代末期に客地に出現した開発地主(根本領主)をさすにいたった。これらの地頭の多くは,平氏の家人となり,地頭職に補任される形でその権限が保証されていた。これが制度化されたのは鎌倉時代である。【守護地頭の勅許】源頼朝は1185年(文治1)11月に東国を基盤に武家政権確立のために,守護地頭の勅許を得た。これによって頼朝を頭目とする武家政権は,東国政権ではなく文字通り全国政権となった。それによって在郷単位でなく,国単位のものとかわったという人さえあるくらいである。彼は義経,行家の追捕を可能にするためにも次の要件を示した。[1]五畿内・山陰・山陽・南海・西海諸国を,北条時政以下の頼朝の家人に分給すること,[2]荘園公領を論ぜず,段別五升の兵糧米の徴収,[3]田地知行,[4]諸国在庁・荘園下司・惣押領使の進退,である。[1][2][3]は,当時右大臣の地位にありながら後白河院政批判を持ちつつ,時局をみていた兼実が,頼朝の代官北条時政の申入れ事項として記入したもの(「玉葉」),[4]は,北条時政奉書にあるもの,その結果勅許を得た。国地頭というのは国地頭ですでに前例があった。総追捕使を設置している。前者の内容を下地領掌権とか荘園検注権と解釈する人がいる。しかし一国地頭職は時政が辞退しているとき勧農のため云々といっていることからも,農民の営種耕作とふかくかかわっている。そこでそこまで立ち入るのをやめ,謀反人居住の国々,凶徒よりの没収地の荘郷への地頭設置奏請に切りかえたのではあるまいか。頼朝が要請し勅許されたものは,[1]が五畿四道諸国を国単位に分賜する点において賜国すなわち知行国,[4]在庁荘園下司惣揮領使進退権は戦乱時における国司の兵指揮権の継承,[2]国中の兵糧米徴収権とかかわる。いずれも国司の権限とかかわっている。その後1186〜89年(文治2〜5)にかけて,王朝は頼朝権力を後退させるためのまき返しをはかっている。総追捕使についても小さな荘園分は廃止せよなどのべている。そのことは御家以外のものは関東の軍役から排除させようとつとめている。1187年(文治3)10月,奥州平泉の藤原秀衡の病没は泰衡への圧迫を頼朝が強め,1189年(文治5)8月,義経の誅死。これによって非常大権をとりあげ,その点は王朝側にとってはよい機会であった。その反面頼朝にとってみれば,ここにおいて武力による全国平定の実力誇示の好機ともなった。そこで諸国守護に焦点をあてている。それが日本66カ国の総守護戦,総地頭職を支えよというものである。それによって文字通り,武家棟梁として全国地支配を確立させようとした。かくして謀叛人,兇悪犯発生のとき,それをとりしまり権限の賦与をせまることとなった。頼朝の死したのち頼家の時代になると,総地頭職を東280国,西380国に二分することさえしている。1185年にえた“在庁下司惣揮領使進退権”は失った。その代わりに日本国総守護権となった。これは権力強化かどうかは定かでないが,御家人制体制のためには不可避な要件であった。それによって政庁の政治支配の整備をはかっている。新補地頭はこうした流れからいうと,再び全国統一の下地管理権を奪いとったものであり,その点で御家人体制を有効に駆使しただけに,その間の政治的な配慮は決してむだではない。