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●清仏戦争 しんふつせんそう

アジア 中華人民共和国 AD1884 清

 ヴェトナムに対する伝統的宗主権を主張する清とヴェトナムの植民地化をはかるフランスとの戦争(1884〜85,光緒10〜光緒11)。中国では中法戦争と呼ぶ。フランスのインドシナ侵略ナポレオン3世時代から本格化し,コーチシナ(ヴェトナム南部)の直轄植民地化(1859〜67),カンボジアの保護国化(1863)などに加えて,雲南など中国南西部へも進出を企てた。第三共和制期に入り,紅河(ソンコイ川)経由で雲南に進出すべくトンキン地方(ヴェトナム北部)に着目したフランスは,1874年3月,ヴェトナム(阮朝)と第2サイゴン条約を結び,紅河沿いの通商権を得たほか,ヴェトナムの(清からの)「独立」を認め,事実上これを保護国化した。清朝はこれを認めずヴェトナムを藩属国と主張したが,政権中枢の李鴻章らの妥協,譲歩政策により実効ある抵抗はできず,トンキンでは劉永福黒旗軍(太平天国期農民反乱の残党)がヴェトナム人と協力して抵抗するのみだった。ところがこれを排除しようとしたフランス将軍リヴィエールが1883年(光緒9)5月黒旗軍に敗死したので,フランスのジュール=フェリー内閣は強硬方針を採り,前年フランス,清両国がヴェトナムの独立を承認して結んだ上海協定を破棄し,陸海軍を増派した。ユエに迫ったフランス軍の恫喝に屈したヴェトナムは8月に第一ユエ(アルマン)条約に調印し,トンキン,アンナン(ヴェトナム中部)におけるフランスの保護権,黒旗軍の駆逐などを認めた。間もなくユエ宮廷では主戦派が政権を握り,清朝でも西太后が湘軍系・清議派などの主戦派を登用してトンキンに派兵したが,フェリー内閣は強硬方針を貫いて紅河デルタを占領し,交渉にあたった李鴻章は屈して,フランス全権フルニエ李=フルニエ協定(天津協約)を結び(1884,光緒10年5月),清軍の撤退,ユエ条約の承認などを約した。翌月フランスは第2ユエ(パトノートル)条約を結び,ヴェトナムに保護権を再確認させた。ところが李=フルニエ協定には清・フランスとも不満だったことから清仏戦争が発生した。6月トンキンバクレで武力衝突が発生したためフランスは直ちに最後通牒を発し,8月威嚇のため台湾の基隆砲台を攻撃占領(陸戦隊は敗退)する一方,福建を攻めて洋務派(湘軍系)の雄左宗棠が築いた馬尾船政局と福建艦隊を全滅させたため,9月6日,清は宣戦の上諭を発した(フランス側は正式宣戦せず)。クールベ提督率いるフランス海軍は10月以降基隆,澎湖島の占領,台湾の淡水,浙江の鎮海の攻撃,台湾,寧波の封鎖などを行った。陸軍もトンキン─広西ルートの要衝ランソンをへて国境の鎮南関まで占領したが,1885年(光緒11)3月に入ると戦局は逆転,清将馮子村がランソンを奪回し,黒旗車・ヴェトナム義勇軍も各地でフランス軍を破ったため,3月末フェリー内閣は倒れた。ところが,この間淮軍系の勢力温存をはかる李鴻章は駐清公使パークスや清国総税務司ロバート=ハートらのイギリス人の調停に乗り,前年の甲申事変以来の朝鮮問題の切迫などを理由に停戦にこぎつけた。4月4日,ハートの代理キャンベルとフランス代表ビヨーが「パリ覚書」に調印し,これにもとづいて6月9日天津で李鴻章とフランス公使パトノートルが修好通商和平条約(清仏天津条約)を締結して戦争は終結した。条約のおもな内容は[1]清はヴェトナムをフランス保護国と認める,[2]清は保勝(ラオカイ)とランソン以北に各一通商港を開く,[3]清が鉄道を建設するさいはフランスの業者と商議する,[4]基隆,澎湖島からフランスは撤退する,などで辺境通商章程(1886年,光緒12),国境協定(1887年,光緒13)などにより補完された。以上により,フランスはインドシナ植民地を確立し,中国南部での通商・鉄道特権を獲得して,帝国主義確立に一歩踏み出した。また清の宗主権の打破はビルマ,朝鮮など他の藩属国への列強の侵略を促し,清朝中心の東アジア国際秩序の解体,帝国主義列強の分割競争の第一歩となった。清朝内部では洋務運動が打撃を受け,変法運動の思想的準備が始められた。

〔参考文献〕『中法戦争』1955,中国近代史資料叢,上海

“Document diplomatiques francais(1871〜1914)”,Iere serie,vols 2〜5.1930〜33,Paris