●神聖ローマ帝国 しんせいローマていこく
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD
中世ドイツ王国を基礎にして10世紀から19世紀初頭までつづいた帝国。盛期にはドイツ・イタリア・ブルグント3王国からなり,皇帝は中世ヨーロッパ世界における最高権威を教皇とのあいだで争った。国名は最初固定せず,3王国名,“帝国”,あるいは皇帝の政策目標に応じて“ローマ帝国”“神聖帝国”としてとらえられた。13世紀半ばに“神聖ローマ帝国”なる名称が現れ,15世紀以降は“ドイツ国民の神聖ローマ帝国”と呼ばれる。【帝国の成立】ザクセン朝第二代のドイツ王オットー1世(大帝)は951年イタリア王となり,ついで962年ローマ教皇ヨハネス12世より皇帝に戴冠された。以後ドイツ王は皇帝を兼ねることとなる。オットーがイタリアおよび皇帝冠によって求めたのは,カール大帝の伝統の継承・イタリア経済からの利益獲得,そしてとくに帝国教会体制の確立である。彼はドイツ王国の集権的統治のために教会支配を政策の根幹としており,その政策を完成させるべく教皇座にも影響力を及ぼすことが必要であった。皇帝はローマ教会および教皇保護の任務をもち,皇帝の力が大きければ保護は支配に転化しえた。しかしそれ以外には皇帝は,他の諸王に優る権威を認められたものの,新しい帝国や権力を得たわけではない。皇帝はドイツ・イタリア,および1033年からはブルグントを各々の国王として支配したのであり,皇帝の権力はこの3王国,とくにドイツ王国に依存した。
【皇帝権と教皇権】皇帝はローマで戴冠されるのだが,オットー大帝は自己の皇帝権をビザンツ皇帝に認めさせるにあたり,古代ローマ帝国の伝統との結びつきを避けていた。しかし,オットー2世は南イタリアに皇帝支配を広げようとし,オットー3世は皇帝が教皇と協調して支配する“ローマ帝国の復興”を政策目標とした。それらの計画はいずれも挫折したが,ローマ化されたキリスト教的皇帝観念はザーリア朝に継承される。同王朝のハインリヒ3世のとき皇帝権は最強となり,普遍的権威にまで高められて中世キリスト教世界の指導権を握った。ところが11世紀半ばから教皇庁のグレゴリウス改革が進展すると,皇帝権に対する教皇権の優位が主張され,両者は激しく争った。このいわゆる叙任権闘争は,ドイツではまた王権と封建諸侯との闘いでもある。闘争が終結したとき,皇帝の権威・ドイツ王の権力は著しく損われ,帝国教会体制も崩れて帝国教会は諸侯と同格となった。その後,シュタウファー朝のフリードリヒ1世がもう一度帝国の再建をはかる。彼は皇帝権が教皇の権威によらず直接に神の恩寵によるものとし,“神聖帝国”を“聖なる教会”に対峙させた。しかし,ドイツにおける聖俗諸侯権力の展開を抑ええず,王権は彼らに敗北した。
【分裂と解体】大空位時代(1256〜73)以後,ドイツは諸侯の領邦国家へと分裂する。諸侯は国王選挙のたびに王家を変えて強大な王権の出現を阻止し(跳躍選挙),自分たちの権力を強めた。1356年の金印勅書は皇帝選挙権を7人の選定侯のものとなし,彼らには事実上の領邦国家主権を認めたが,やがて他の諸侯もこれにならう。その間,諸皇帝も帝国をかえりみず自家の領土と権力の拡大強化をはかり,1438年以降帝位を世襲するハプスブルク家も同様であった。15世紀を通して諸侯と帝国都市の進めた帝国改造運動は,帝国統一の回復をめざす最後の試みであったが,成功しなかった。宗教改革と宗教戦争をへて帝国の分裂はさらに進み,ウェストファリア条約で領邦主権は最終的に確立した。その後の帝国の歴史は各領邦国家の歴史でしかない。1806年ナポレオン征服下に一部領邦君主がドイツ連邦を結成し,ハプスブルク家が帝位を放棄したとき,すでに名目のみとなっていた帝国も消滅する。
〔参考文献〕林健太郎編『ドイツ史』1977,山川出版社
西川正雄編『ドイツ史研究入門』1984,東京大学出版会