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●壬申の乱 じんしんのらん

アジア 日本 AD672 

天智天皇の没後,天智天皇の皇子,大友皇子と,天智天皇の弟,大海人皇子が,672年(壬申の年)に皇位継承をめぐって争いをおこし,約1カ月後,大海人皇子が勝利をみて終焉した内乱をいう。天智天皇の時代,弟の大海人皇子を皇太弟としていたが,天智天皇はその晩年にいたって,実子の大友皇子に大権をゆだね,皇位継承者に立てんことを願った。671年(天智10)には,大友皇子を,新しく太政大臣に任じ,蘇我臣赤兄を左大臣,中臣連金を右大臣,蘇我臣果安(はたやす)・巨勢巨人(おみひと)・紀巨大人の3人を御史大夫として,その体制をかためた。これら6人の人々は,内裏の西殿の仏像の前で誓盟し,天皇の意志に最後まで従うことを約している。しかし,この年,天智天皇は病にたおれたが,臨終の席においても謀を用いて大海人皇子をのぞこうと計った。蘇我臣安麻呂(やすまろ)の忠告によってあやうきをのがれ,皇位を継ぐ気のないことを告げ,直ちに僧形となって,吉野にはしった。時の人は,〈虎に翼を着けて放てり〉と評したという。大友皇子は伊賀采女宅子(うねめやかこ)娘(いらつめ)の子で,いわゆる卑母出身の皇子であった。それに対し皇柱女帝の実子である大海人皇子は,天智天皇を助けて改新の事業を行った功績もあり,人望も高かったので,大海人皇子に心をよせる者も多かった。翌年,つまり672年(壬申の年)5日にいたると,大海人皇子の会人,朴井連雄君(えいのむらじおきみ)は,大友皇子が,天智天皇の山陵を造る名目で,美濃尾張の人民を徴発し,各地に候をたて,戦闘体制に入っていることを告げた。そこで6月になると,大海人皇子もついに大友皇子と戦うことを決意し,村国連男依(むらくにむらじおより)らに,美濃国安八磨郡の湯沐領(とうもくりょう,皇太子領)の兵を徴せし,あわせて諸兵に不破の道を塞ぐことを命じた。そして大海人皇子も妻の讃良皇女(ささらのこうじょ,後の持統女帝)や草壁皇子など30余人をつれて,東国に赴いた。大伴連馬来田(まぐた)や黄書造大伴(きふみみやつこおおとも)らは吉野から,馳せ参じて来た。そして伊賀を越え,伊勢にいたるあいだに味方が多く参集して来た。この行動を察知できなかった大友皇子方の動揺は大きく,急いで諸国に使者を遣して,兵を徴ったが,思うにまかせなかった。それに対し,大海人皇子の側に尾張国司小子部(ちいさこべ)連鉗鉤(さひち)が2万の軍衆を率いて帰順するなど,多くの兵が結集し始めた。大伴連吹負(うけい)は坂上直熊毛(さかうえあたいくまけ)や漢直(あやのあたい)らと計り,倭の京を占拠した。大海人皇子はこれをよろこび,吹負を将軍に任じたが,その配下に三輪君高市麻呂らの豪雄の人々が配された。大海人皇子は村国連男依らに数万の兵をさずけて,不破から直接近江をうかがわせた。一方,倭においても近江方と戦闘があり,一進一退を繰り返したが,ついに大伴連吹負は東方の援軍をえて箸陵のもとに近江軍を大破した。男依らの軍は瀬田に陣をはり,最後の決戦をいどむ大友皇子の軍を激戦ののち破り,大勝をはくした。大友皇子は隠れるところをうしない,山前(やまさき)に入って,自縊した。ときに7月22日であった。左右大臣らは捕えられ,8月には高市皇子に命じて,近江方の群臣の犯状を定め,右大臣中臣連金は斬罪,左大臣蘇我臣杲安・御史大夫巨勢臣人らは流罪に処せられた。大海人皇子は倭に帰り,岡本宮の南に宮室をつくった。これが飛鳥浄御原宮である。ここで大海人皇子は,功勲のあるものに授位している。翌年2月,大海人皇子は浄御原宮で即位した。そして讃良皇女が皇后とされたのである。この後いわゆる天武・持統朝が出現することになるが,この時期に古代国家が確立していくわけで,その契機となった壬申の乱は,いま,政治史的に意義はきわめて高いといわなければなるまい。自らの手で,皇位を獲得した天皇は,『天武紀』に〈雄抜(おお)しく,神武(たけ)し〉としてその性格がたたえられ,『万葉集』では,〈大君は 神にしませば〉と歌われている。この権威を背景に,文字どおりの天皇親政が実現し,天皇を頂点とする古代国家のヒエラルキーが形成されていった。また,この内乱において,つねに天皇とともに苦労をかさねた皇后の政治的発言権は高く,のちに皇后は自らの子,草壁皇子を皇太子とし,彼が崩ずるや,自ら天皇(持統天皇)となり,孫の文武天皇の成長をまって政権を譲るという行動に出られたのも,遠因は,この壬申の乱にあったというべきであろう。

〔参考文献〕直木孝次郎『壬申の乱』

亀田隆之『壬申の乱』

川崎庸之『天武天皇