●神社 じんじゃ
AD
やしろともいう。神を祭る殿舎。神道では古く祭神を鎮祭する神殿を宮と呼んだ。この宮は「御屋」のことで「神の家」の意でもある。最古の制度としては崇神天皇のとき,天社・国社および神地・神戸を定めたとある。『日本書紀』のつたえるところによると,神社の整備は天武天皇のころから,伊勢神宮の式年遷宮や諸神事が定められ,さらに養老令で,神祇官が諸官の上に定められ,祭祀・神祇をつかさどり,神祇令を定めたことに求められる。そしてもろもろの天神地祇をまつる神社の別,大社・中社・小社の社格を定め,官幣にあずかる官社を定めている。こうした社格のほかに伊勢大神とか出雲大神などという名称が生まれている。本来,諏訪神社などの祭場は臨時の仮設のものであった。したがって神道はもとは常設の神殿をもたず,祭りのたびごとに聖地に神籬(ひもろぎ)などを立てて神霊の降臨を迎えている。祭りのときだけ仮小屋をたてたものが,しだいに社殿を恒久的につくるようになった。代表的な神社建築の祖型として伊勢神宮の神明造りや出雲大社の妻入大社造りがある。その内部構造はきわめて原始的住宅そのままのものであった。伊勢の場合は穀倉に,出雲の場合は古代住宅に近いものであった。伊勢神宮の場合は,支配者が神の祀り場にミイツキ(御斎),つまりお祭のための貢納をおさめさせている。この貢納物−−主として米などの農産物−−を保管するための倉庫を基本として神社の建築の様式がつくり出されたものである。神社を中心とする神社神道は古神道の時代から今日まで歴史的にも社会的にも主流を形成し,国家や地域社会の統一と団結統合のシンボルとなっている。【心の御柱】出雲大社の本殿にも心の御柱がある。これは1本の太い柱をたてて神の依りつく場所と認めたあとである。それを中心として祀った。やがて一般の豪族の住いの形を移してそこに神を常顕させることとなった。伊勢神宮には心の御柱がある。秘中の秘とされ,古来からいろいろの説がなされていたが,それによれば心の御柱とは神宮正殿の高床の下,神体の鏡がまつられている真下の地中に埋設されている径9寸,長さ約6尺の檜の棒で,その上に切妻の屋根の柵家がある。そこに榊と土器とがまつられている。これをヒモロギと考えている。もし心の御柱とそれをおおう柵家とがヒモロギであるとすれば,ヒモロギを2〜3人でもちはこびできる厨子のような小さい建築的施設とする本居宣長以来の説と,榊であるとする卜部兼文・吉田兼倶以来の説とが統一される(川添登『建築と伝統』1971,彰国社)。ヒモロギはイワサカ(磐境)とともに,ある場所を神聖な土地としてまつった。きわめてアニミズム的色彩のつよいものである。このようにみるとアニミズムの伝統を今日に残している伊勢の建築は,天武以前にあまり古くまでさかのぼることができない。出雲大社の方が古い形式と考えられる。出雲大社や住吉神社など,伊勢よりも古い形といわれる神社が妻入であるのに対し,伊勢は平入である。伊勢は穀倉の発達したもので,別宮の中には校倉式のものが多い。屯倉のごときもの,共同倉庫としての高床の倉と考えることさえできる。
【神社の構成】神社は村の集団的な祭りの場である。神社は集会・宴楽の広場である。この土地は禁制された土地である。権力の拠点でも敬愛させる土地でもある。したがって支配を神聖化するため拝んでいる。したがって先述した通り最初は神社は恒常的なものでなかったがしだいに発展し,常設の建物となった。そして山宮と里宮の分化もおこった。山の神や山谷に葬られたところの祖先の霊をまつる里宮と山宮があった。山宮は山の高い所にある。御輿の渡御と御旅所の設定などをみると神の巡幸によって,その地域の人々を安泰に守っていこうとしていることが知られる。そして御旅所が固定化したものが里宮である。こうしたところに神社形成のプロセスがふくまれていたのではあるまいか。最高祭主が王であったときには,神社と王宮は同じであった。ところがこの両者の分離がおこったのは古代律令国家が成立して,太政官と神祇官が分離したことにはじまる。神社の経営も,神社が官社となりランク付けされると,財源も共同体からうばいとられた。制度化にともなって,国家から奴婢その他を支給している。神戸の民の労役の一部は神税として神社の経営につかわれる。荘園社会になると神社は荘園領主となり,領主化し,その勢力下に市がつくられ,座がつくられ,座の特権をみとめたりした。ときには神社に武器庫や城としての役割を果たしたこともある。近世になると除地を認められ,朱印地を与えられている。地方では大名の保護をうけているものもある。村の神社は固有の神田をもっている場合も少なくない。
【神社制度の歴史】天津社と国津社との二つがあった。国津社は国津神を,天津社は天津神をまつっている。古来の氏族神や地方神の中には国津神でなく天津神の中にくみこまれているのも権力構成によって生じている。朝廷が祈年の奉幣するものを官社といっている。そして官社帳・神名張・官帳にのっている。それには必ず社格が神階・神位とともにかかれている。官社の数はしだいに増加し,五畿七道に鎮座の天神地祇は3,132座となる。その社数は2,861,これを延喜式内社と呼び,式内社といっている。なおその社への幣帛に,官幣(神祇官が奉ずるもの)と国幣(国司が奉るもの)と二つある。そうした神社のなかで朝廷がとくに尊崇するものとして伊勢・石清水・賀茂のごとき22社がある。さらに国ごとに主要な神社の等級に応じ,一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮が指名された。一ノ宮とならんで重要な社に総社がある。国司所各社が国府に近いところでまとめられたものである。
いつの時代にも政治支配者と祭司的性格とは兼備するよう配慮されている。鎌倉政権は御成敗式目で神社の修理への心得をとくほど神祇行政とかかわりをもっている。寺社奉行をつくってそれとのかかわりを考え,鶴岡八幡宮以下御願社寺などには奉行人をおいて事務に専念させている。南北朝の内乱で国家の統制力はなくなり,社寺は保護を失い,自立を求めて闘わざるをえなくなり,社領拡大を豪族と連合して確保しようとつとめた。室町時代になると大社には社家奉行と寺家奉行とを配置して,臨時の大事には奉行人を配置している。織田・豊臣政権は,社寺の窮乏を救う政治的経済的配慮はしたが,兵力をもって抵抗した大社寺には弾圧を加えた。日吉・熊野・彦山などはそれによって抑えつけられた。太閤検地と石高標示で枠付けられるにいたった。徳川政権下でも社寺には朱印地が与えられたが,1692年(元禄3)社寺の新設・建物の拡大防止をし,信仰についても干渉せず現状維持の方針をとった。1665年(寛文5)諸社禰宜神官法度をつくって幕府にしたがうようにし,神祇伯白川家の支配下に一部おくとともに吉田神道の管掌下にもおいた。
明治維新政府の下で神仏分離令を出し,神官と僧侶の区別をし,神祇官を太政官の外におき,令制による神祇官を再興させ,惟神道普及のための大教宣布をさせた。官幣・国幣とともに府県郷社などをつくった。1872年(明治5)には別格官幣社などもつくっている。そして官幣小社に準じて国の大きな変革に力をつくした功臣をまつることとなった。明治国家は教部省をつくり,やがて内務省の管轄下におき,社寺局その他を設けたので,国家神道と称された。政府はつねに信仰の自由とのかかわりで,神道を宗教かどうかをめぐって意見をたたかわせつつ,宗教の圏外におくことを考えてきた。1940年には内務省に神社局までつくられたが,1945年12月15日には国家神道・神社神道に対するいわゆる神道指令が出され,国家とのかかわりをたつこととなった。今では神社建築のない神社神道はなくなっているが,もとをただせば,神社の形式は祭りの場で,もっと農業生活と密着したものであった。そのもとは,ひもろぎ・やしろ・みやというものとのかかわりでとかれるものであったことを,改めて知って神社のあり方について再考することも必要ではあるまいか。今日宗教法人となっているが,その底にある議論ももっと活性化してよいのではないか。
![]()