●秦時代 しんじだい
アジア 中華人民共和国 AD221 魏・呉・蜀
前221〜前207(始皇帝26〜胡亥3)前3世紀に,中国最初の統一帝国である秦が支配していた時代。【統一の過程】始皇帝の父である荘襄王は,昭襄王の孫で子楚といったが,若いときに質子(人質)として趙の都邯鄲に派遣され,そこで,大商人の呂不韋と知り合った。子楚は,呂不韋の財力で,昭襄王の太子安国君の相続人となる密約を得ることに成功し,またすでに妊娠していた呂不韋の愛妾を懇望して配偶者とし,子の政が生まれた。その後,子楚は,秦と趙が戦いを交える間隙をぬって帰国したが,まもなく昭襄王が没し,安国君が即位すると,その太子となった。孝文王は,即位後数日で没した。子楚はあとを継いで,荘襄王として即位し,呂不韋を丞相に任命した。荘襄王は,秦に接していた東周を滅ぼして,領土を拡大したが,在位短くして没した。そのあとを継いで秦王政(のちの始皇帝)が13歳で即位し,呂不韋は相国となって思うままに政治を行っていた。しかし,秦王政の前238年(始皇帝9),王は母の大后と密通していたロウアイ※注1※を処刑し,その事件に連座していた呂不韋を免職にし,自ら政務をとるようになった。前230年(始皇帝17),六国のなかで最も弱小であった韓を滅ぼし,その2年後には,秦にとって最も危険であった趙を,重臣たちの離間工作をすすめながら攻撃して,これを破り滅ぼした。前225年(始皇帝22)には,最も先進国であった魏を滅ぼし,その2年後には,最も恐るべき楚を滅ぼし,3年後には燕を,さらにその翌年には斉を滅ぼして,前221年(始皇帝26)に,全国統一の事業を完成した。
【皇帝制度】前221年,秦王政が全国統一を達成すると,宇宙間唯一の存在という意味をこめて皇帝の称号を名のり,命令を制,法令を詔といい,自らは朕(ちん)と称することにした。また,これまでの諡法は,死後に行状を検討して諡(おくりな)を定めたが,これを廃止して,自ら死後の名「始」と定め,つづいて2世,3世に及ぶべきものと定めた。始皇帝の死後,第2世皇帝があとをついだが,3代目になって,反乱が各地におこったために,旧来の秦本国だけを支配することになって秦王と称した。
【政治組織】全国を統治することになった秦帝国の政治組織については,初め,遠隔の地に王をたてて封建しようという意見があったが,これに反対した李斯の意見を採用して,多少の例外はあったが,皇帝の直轄支配とすることが定まった。全国を36郡にわけ,郡ごとに守(行政)・尉(軍事)・監(監察)を置き,郡の下は県にわけ,県ごとに令(長官)・丞(次官)を置いた。これらの機関には,中央から官僚を派遣して治めさせ,一方,都には,政務を統括する機関として丞相(行政)・太尉(軍事)・御史大夫(監察)を置いて,3権を分立させた。とくに,地方の政治には,御史大夫の監察があるほか,皇帝がたびたび巡幸して,世情にふれるとともに,支配の貫徹をはかった。その巡幸に備えてつくった馳道(ちどう)は,軍用道路としての役割もになった。
【階級制度】秦では新しい階級制度をもうけた。支配階級には,第1級の公士から第20級の徹侯まで,二十等爵の制度がもうけられて下級爵から上級爵へ昇進することになっていて,爵を有しない庶民を黔首と呼んでいた。黔首のなかでも,普通の人のほかに,一段低い者とされたのは,新しい占領地の守備隊の兵士として派遣された者たちで,逃亡の罪を犯した者,分家しないで女性の家に入婿(いりむこ)して本姓を改めた者,商人の籍に登録されている者などが,それにあたった。また,これらよりもさがって賤民として扱われた者もいた。黔首よりも下等とされたのは,罪人で刑が免除されて奴隷となった者たちで,この種の人々が多かったといわれる。
【法治主義の政治】政治にあたっては,李斯の法家の学説にもとづいて,統一政治を強力に推進した。たとえば,度量衡は統一し,金属製の「ます」や「はかり」をつくって各地に配布して,その徹底をはかった。この用具には,詔の文がきざまれていた。また,馬車の車の幅も統一され,文字は小篆で統一し,貨幣も半両銭で統一した。さらに,その他の法律も,実情とは関係なく強制されたから,実際には,各地で摩擦が生ずることが多かったともいわれている。秦の統一政策の中でも,悪政の一つと指摘されるのは焚書坑儒である。このうち,焚書は,李斯の意見に従い,政治批判を取り締まる目的で行われた。秦の記録と,政府が所蔵する書物以外で,民間にある書籍のうち,医薬や卜筮(ぼくぜい)・農書などを除いたほかの書物は,政府に提出させて,これを焼きすてた。また,坑儒とは,始皇帝が神仙思想を信じ,不死の薬を求めようとして多額の費用をかけて方術の士に命じたが,実際には,得られなかったばかりか,そのために死刑になることを恐れた方術の士が逃げ去ったことを怒り,咸陽の市中で秦の政治について批判している者を探させた結果,460余人を捕えて坑(あな)埋めにしたことをいう。あながち,儒者だけではなかったとの説もあり,のちの漢代において儒者たちが,秦の悪政の一つとして非難し,儒家圧迫策に仕立てたのではないかともいわれている。
【対外政策】戦国時代末期に,北方の遊牧民族のなかから匈奴族が勢力を強め,秦の北辺に南下する気配をみせるようになった。そこで,始皇帝は,長子の扶蘇と将軍蒙恬に数十万人の軍を率いさせて匈奴を攻撃させ,北辺の守りを固めさせる一方,万里の長城を建設して,匈奴の南下を防ごうとした。長城は,黄河上流のリントウ※注2※あたりから,黄河の流れに沿って北上し,黄河北岸の陰山山脈に並行し,その東では,もと戦国時代に趙や燕がつくった長城に連なり,やがて東方の遼寧の地にまで及んだ。また,始皇帝は,華南の地に大軍を派遣して征服し,南海郡(現在の広東省)・桂林郡(現在の広西壮族自治区)・象郡(現在のヴェトナム民主共和国のハノイ)を置き,また,ビン※注3※越地方(現在の福建省)を征服して,ビン※注3※中郡を置いた。こうして西は,現在の甘粛省・雲南省を除き,その東側の大部分に及ぶ広大な領域を版図とした。
【秦の滅亡】前210年(始皇帝37),始皇帝は江南地方を西から東へ巡幸し,北上して,もと斉の地に行って帰国の途についたが,その途中病死した。このとき随行していた李斯と趙高は,始皇帝の死を秘匿し,遺書を偽造して,長子扶蘇に死を賜わって自殺に追い込んだ。その上で,末子の胡亥をたてて第2世皇帝とした。第2世皇帝は,兄たちを粛清し,李斯も趙高の陰謀にかかって,その一族とともに処刑されるなど,ますます苛酷な政治をつづけた。たまたま,長城防衛の兵士として徴発された陳勝は,長城到着の期日に遅れ,処刑されることが明らかになると,部下とはかって反乱をおこし,その勢力をひろげた。秦の政治に不満をいだいていた者や戦国時代の六国の王の一族のなかには,呼応して反乱にたち上がる者があいついだ。秦軍は反乱鎮圧につとめたが,都では趙高が丞相となって実権をにぎり,第2世皇帝を謀殺し秦王子嬰をたてた。反乱をおこした勢力も,しだいにもとの楚王の一族をたてた項羽が中心となって,秦への攻撃がつづけられ,楚の将軍となっていた沛公劉邦の攻撃で,咸陽は陥落し,秦王子嬰は降伏した。まもなく,咸陽に入った項羽の軍は,秦王以下一族を殺し,珍宝・貨財を没収し,宮殿を焼いて秦を滅ぼした。項羽は,西楚の覇王として,天下に命令することになったが,漢王劉邦と対立し,5年にわたる抗争ののち,劉邦が漢を建てて,再び天下を統一した。
〔参考文献〕宮崎市定『中国史』上,1977,岩波書店
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