●壬午の変 じんごのへん
アジア 日本 AD1876 明治時代
1876年(明治9)の不平等な日朝修好条規(江華島条約)により,外国の綿布などの商品が朝鮮に入ってくるとともに,米・大豆・金地金などが日本に流出することになり,朝鮮は外国資本主義の商品市場と原料供給地に転落するようになった。このために朝鮮の農民はもとより,手工業者も没落し,都市の民衆は食糧などの物価騰貴に苦しむようになった。1980年代に入ると,閔氏政権はさらに欧米列強の圧力に屈して不平等な条約締結の交渉をしていた。これに対抗して攘夷の衛正斥邪運動が展開されていた。当時漢城(ソウル)などの都市では,食糧などの物価は騰貴するのに対し,国家財政の破綻から下級役人の給料は上がらず,ソウルの兵士は生活苦に追い込まれていたが,その上安い俸禄米でさえ13カ月も遅配されていた。また閔氏政権は1981年4月,“別技軍”という新式軍隊を創設し,日本公使館附武官堀本礼造少尉を教官にして,日本式軍事訓練をさせていた。それに伴い旧軍隊の兵士は疎んじられ,失業する運命にあり,兵士の不満は増大し,一触即発の状況となっていた。そこへやっと支給された1カ月分の俸禄米は,中間役人のピンはねもあって糠と砂の多く混じったものであった。これで兵士の憤懣は一挙に爆発し,7月23日に全長孫・柳春万らを中心として反乱をおこした。兵士は捕盗庁・義禁府・京畿監営と閔氏一派の要人宅などを襲撃し,王宮に参内する宜恵堂上閔謙鎬・京畿観察使金輔・領敦寧府事興寅君李最応を殺害し,さらに閔妃(明成皇后)も殺害しようとしたが,宮城からの脱出で失敗した。また別技軍兵営を襲撃して堀本少尉を殺害し,ソウル市民と合流して日本公使館を襲撃していた。日本公使花房義貞をはじめとする外交官・公使官付武官・巡査らは応戦したが,守りきれないとみて夜半,館員自ら公使館に火を放って,そのすきに仁川へ脱出したが,仁川でも反日暴動が波及していた。花房らは仁川でイギリス測量船に乗船して27日,長崎に引き揚げた。反乱の兵士は政治のありかた,なかんずく反日・反侵略の点では閔氏政権と対照的であった興宣大院君李是応を推たいしていた。高宗も,ソウルの大分部の兵士が反乱に参加していたので鎮圧方法を見出せず,大臣と協議して大院君入闕を決定し,摂政に相当する権限を与え,大院君に事態の収拾をはからせた。政権の座についた大院君は閔氏政権の政策の是正を約して反乱を鎮撫した。花房公使の報告を受けた日本政府は7月30日,緊急閣議を開き対策を協議した。花房を全権委員に任命し,金剛・日進・比叡・清輝の軍艦4隻,陸戦隊150名と歩兵1大隊を帯同して,8月10日に朝鮮に派遣させるとともに,東京・熊本両鎮台にも動員準備をさせていた。花房は8月20日から大院君・政府関係者と会って処理策の交渉を開始し,[1]朝鮮政府の公式謝罪,[2]被害者遺族への扶助料交付,[3]犯人の逮捕・処刑と政府内関係者の罷免と処罰,[4]日本への損害賠償と軍隊派遣費の補填などを要求した。朝鮮の遅延策による抵抗に対し,8月23日に花房は国交断絶を通告して,日本の外交官・護衛兵を引率してソウルを引き揚げ,仁川にいたり和歌丸に乗船した。
清国は当時,領選使・問議官として清国に派遣されていた金允植・魚允中の意見を聞き,閔氏政権の意向をかなえる名目で,8月7日に北洋艦隊長官丁汝昌の率いる軍艦3隻を派遣し,20日には北洋陸軍3,000名を増派した。道員馬連中は花房らと会見した結果,日本の強硬策を防止して清国の宗主権を強化する思惑から,大院君を清国に拉致して閔氏政権を再び復活させた。清軍はまた反乱をおこした朝鮮軍隊を襲撃して多数の兵士を逮捕した。朝鮮兵は抵抗したがついに鎮圧された。閔氏政権は,李裕元を全権,金弘集を副全権に任命して花房と3次にわたる交渉をした結果,8月30日に済物浦条約を成立させた。その内容は,公使館襲撃・殺害犯人の処罰,日本人遺族への5万円給与,日本への損害賠償50万円,駐兵権,揚花津などの開市などであった。日本は軍乱にかこつけて賠償だけでなく,新たな利権を獲得した。また清と日本は壬午軍乱を契機にして朝鮮に軍隊を駐屯させて,朝鮮の内政干渉と侵略強化に利用した。この事件で朝鮮において日清両軍が衝突する危険があったが,日本はまだ戦争準備ができていなかったので回避する消極策をとったが,その代わりこれを契機にして対清戦争への軍備拡張を推進した。朝鮮はこの事件を契機にして,半植民地化はさらに深刻化した。
〔参考文献〕国保橋潔『近代日鮮関係の研究 上』1940,朝鮮総督府中枢院
山辺健太郎『日本の韓国併合』1966,太平出版社