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●人権宣言 じんけんせんげん

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 フランス革命の初期,憲法制定国民議会(立憲議会)によって発表された宣言。正式には「人間と市民の権利の宣言」。アンシャン=レジーム(旧制度)の死亡証書といわれ,人間ないし国民の基本的権利を宣言し,新しい市民社会の原理を確立したものとして,世界史的意義をもち,以後多くの国の憲法に含まれた権利章典の模範。

【人権宣言の先例】基本的人権の原理は,イギリス憲政の発展のなかで,徐々に形成された。マグナ=カルタは,概して貴族たちが慣習的に保持してきた封建的諸権利を国王に承認させたものに過ぎなかったが,なお,自由民が「同等者による適法の裁判」を受ける権利を保証し,国王による課税は議会の同意を要するという原則につながる規定を含み,また一般に,国王がその臣下の一定限度の法的権利を認めるという原則を含んでいた。マグナ=カルタは以後何度も追認され,人民の権利保障が拡大したが,権利請願(1628)にいたって,何人も議会の同意なくして課税を強制されぬこと,自由民は理由を明示されずに,禁錮・拘留されないこと,などの原則が法的に承認された。これらの原則は,王権に対する議会の優位を確定した権利章典(1689)によって強固な基礎づけを与えられた。要するに人権の原理は,抽象的・普遍的な理論としてでなく,国王の恣意的な権力行使を制限しようとした実際的・具体的なイギリスの諸法令のなかで,しだいに発達し,その間に,個人の権利は生得で不可譲のものであり,憲法ないし政府は,個人がすでに保持するそれらの権利を保護すべきだ,という理念にまで高められたのである。この理念は,早くから自治と人権保障の慣行が発達していた北アメリカで,アメリカ独立革命の際に,より明確な表現を与えられた。1776年6月,ヴァージニア代議会は独立共和国としての憲法を採択し,そのなかに,ジョージ=メーソンの起草による「権利宣言」を含めた。それは,逮捕・拘禁に関する人身保護,陪審裁判,人民主権,出版の自由,有害な政府を改変する人民の不可譲の権利三権分立,完全な宗教的自由などの規定を含み,ほかの諸邦の憲法に含まれた権利章典および合衆国憲法の修正第1〜10条のモデルとなった。ヴァージニア権利宣言にわずかに遅れて,大陸会議が発したアメリカ独立宣言も,創造主によって与えられた,不可譲の基本的人権として「生命・自由・幸福の追求」をあげ,それらの権利を守るための人民の政府形成の権利を明確にのべていた。

【人権宣言の発表】1789年7月14日に生じたバスチーユ牢獄襲撃につづき,パリでは中産市民からなる自治機関がつくられ,また市民の自衛軍(国民衛兵)が組織された。この動きは直ちに地方諸都市にも波及し,さらに農村では,領主に対する農民の暴動が続発して,いわゆる“大恐怖”がひろがった。こうした革命的情勢は,一面で,国民議会を国王による武力弾圧の危険から救ったが,反面,国民議会に集まったブルジョワ代表と自由主義的貴族を恐怖させた。国民議会は7月17日,憲法制定国民議会と改称し,憲法と人権宣言の起草に着手していたが,農村の革命的情勢を鎮めるため,8月4日,〈封建的特権の廃止〉を宣言し,またこの直前に人権宣言を憲法に先んじて発表することを決定した。ラファイエットミラボー・シェイエス・ムーニエなどの草案をもとに,8月26日,「人間と市民の権利の宣言」が発表された。このいわゆる「人権宣言」は,17条からなり,その第1条に,〈人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する〉という有名な章句が掲げられた。第2条で,これらの自然にして不可譲の権利とは,〈自由,財産,安全,圧制に対する抵抗の権利〉であると規定され,また自由とは,〈他人を傷つけぬ限り,いかなることをも行いうる能力〉と規定された(第4条)。第3条では,〈すべての主権の根源は国民に存する〉と明言され,また〈思想と言論の自由な交換は人間の最も貴重な権利の一つ〉であるとされた(第11条)。第17条は,所有権は〈不可侵かつ神聖〉であると明記した。そのほか,宗教・思想の自由,市民またはその代表を通じて平等な課税,必要な制限に服したうえでの言論・出版の自由三権分立などがのべられているが,個人は,直接あるいは代表を通じて参加し,形成した一様な法に服さねばならぬとのべ,また反面,結社の自由に言及していないこと−−それは労働者の組合結成の禁止(ル=シャプリエ法,1791)を許した−−は,注目に値する。この人権宣言は,1791年憲法の前文として,その冒頭に掲げられた。なお,1792年からの国民公会も憲法制定に着手し,1793年,ジロンド派は個人的権利を強調した「人民の市民的・政治的自然権の宣言」を主張したが,平等と社会的権利を強調した山岳派の「人および市民の権利の宣言」が,いわゆる山岳派憲法の前堤として採択された。テルミドール反動後の「革命暦3年の憲法」(1895)にも,保守的ではあるが「人および市民の権利・義務の宣言」が含まれている。

【人権宣言の性格と評価】フランス人権宣言の思想的な源については論争があり,またその論争はこの宣言の性格と評価にも関連をもつ。一つの立場は,宣言の思想的源泉を18世紀啓蒙思想,とくにルソーの『社会契約論』に求める。これに対し,ドイツの公法学者イエリネック(1851〜1911)は宣言の源はヴァージニア権利宣言をはじめとするアメリカ諸邦の権利章典にある,と主張した。人権宣言の作製者たちが啓蒙思想家,とくにルソーの影響下にあったことは事実であるが,当時,アメリカ諸邦の憲法がフランスで知られていたこともまた事実である。この点から論争は,人権宣言の性格に関して,より複雑な形をとる。すなわち,この宣言は,個人は〈社会契約〉によって身体と精神のすべてを社会に引き渡す,とするルソーの影響下にあり,したがってそれは個人的人権の主張でなく,むしろ〈一般意志〉の名のもとに法の支配を拡大・能率化し,封建的諸制度を廃止して近代的中央集権国家への道を開こうとしたものだったとする主張,またルソーの影響を認めつつも,ルソーは政府ではなく,一般意志に具現される社会への個人の従属を説いたのであるから,個人はなお政府権力からの保護を必要とし,これが人権宣言によって保障されたのだとする主張,さらにルソーの影響を認めず,人権宣言はイギリス・アメリカの権利章典に由来する個人的人権の宣言であったとする主張が相対立することとなった。こうした論争に関連して,人権宣言の評価も分かれる。エドマンド=バーク以来の保守的批判者は,この宣言は,人間存在に関する抽象的・普遍的な真理を追求した人びとが作製した文書であり,そのような抽象理念が現実の,歴史的所産である人間を統治する政治や法に適用されたために,フランス革命の混乱と破局が生じたのだと主張した。反面,トマス=ペイン以来,人権宣言を高く評価する人びとも多い。歴史的文脈から人権宣言を擁護する人々は,不合理なアンシャン=レジームのもとで破産しかかっていた当時のフランスにおいて,この宣言は,勤勉で有能なブルジョワジーの主張を普遍的真理として宣言することによって,フランスに近代国家としての進歩の道を開いたと主張した。さらに人権宣言の抽象的・観念的性格を認めつつも,なおそれが高度の政治倫理を理想として設定した点を評価する立場もある。いずれにせよこの宣言が,18世紀ブルジョワジーの所産としての制約をもちつつ,新しい市民社会の原理を確立し,人間解放の理念を人類の共有財産とした意義は否定し難い。それゆえ,人権宣言の歴史的影響力については論争の余地はない。それは,19世紀以来のほとんどの国々の憲法に含まれた「権利章典」に影響を与え,1948年,国際連合総会もまた「世界人権宣言」を採択した。