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●神功皇后 じんぐうこうごう

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『古事記』『日本書紀』『風土記』などにみえる伝説上の人物。仲哀天皇の皇后。『日本書紀』によると,名を気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)といい,父は開化天皇の曾孫気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ),母はカヅラキノタカヌカヒメ※注1※。『古事記』では息長帯比売命と記し,父は開化天皇の玄孫,母は新羅国の皇子天之日矛(あめのひぼこ)の5世の孫と伝える。仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため筑紫の橿日宮(かしひのみや)にいたとき,天照大神と底筒男(そこつつのお)・中筒男(なかつつのお)・上筒男(うわつつのお)の神が皇后に乗り移って新羅国を討つべしとの託宣を下したが,仲哀はこれを信じなかったために急死した(賊の矢に当たって死んだともいう)。そこで,皇后は臨月であったにもかかわらず新羅国を討ち,帰国後,筑紫の宇美(うみ)で応神を出産。さらに武内宿禰(たけしうちのすくね)とともにカゴサカ※注2※・忍熊二王の反乱を鎮圧し,応神が即位するまで長らく・政治をとっていたという。『日本書紀』にはさらに多くの日朝関係記事が記載され,そのほとんどは後代の造作にすぎないが,なかには干支二運(120年)くりさげれば史実とみられる記事もある。また,4カ所にわたって『魏志』倭人伝や『晋書』起居注などが引用され,編述者が皇后を倭の女王(卑弥呼・台(壱カ)与)に擬していた形跡もある。

【神功皇后伝説の形成過程】神功伝説は段階的に形成されてきたものであるが,その核となったものは,朝鮮半島平定の伝承であったとみられる。478年(宋・昇明2)に倭王武(雄略天皇)が順帝に奉った『宋書』所載の上表文に,〈昔より祖禰(そでい,祖先),躬(みずか)ら甲冑をツラヌ※注3※き,山川を跋渉(ばっしょう)し,寧処に遑(いとま)あらず,東は毛人を征すること五十五国,西は衆夷(しゅうい)を服すること六十六国,渡りて海北(朝鮮半島)を平ぐること九十五国〉とあり,当時すでに大和政権のもとに朝鮮半島平定の伝承があったことが知られる。おそらく,こうした伝承が荷担者や時代の要請を受け入れて雪だるま式に大きくなり,やがて「新羅・百済侵略の物語」(『古事記』)や「三韓征伐の物語」(『日本書紀』)に変貌していったと考えられる。ただし,「九十五国」を平定したというのは史実ではなく,当時における支配者層の願望を示しているとみるべきであろう。しかし,神功伝説の素材となったものは,けっしてそれだけではない。オキナガ(ルビ・・・・)タラシヒメという神功の和風諡号(しごう)やその系譜中に京都府南部の地名に由来する名(山代之大筒木真若王・高材比売・迦邇米雷王など)がみられることからも明らかなように,京都府綴喜(つづき)郡の息長(おきなが)氏の伝承も取り入れられている。また,香椎宮に伝わる大帯日売(おおたらしひめ)の伝承も,その構成要素の一つになっているとみられる。大帯日売は神功の別称であるが,この名は『日本書紀』により以前に成立した『播磨国風土記』にすでにみえており,しかもこの名で語られている説話には神話的色彩の濃厚なものが少なくない。神功・応神の伝承は,民間伝承的にいえば海神信仰にもとづく“海の母神と御子神の伝承”にほかならないが,神功の女神的側面がそうした信仰から生み出されてきた大帯日売の伝承にもとづいていることは,はぼ疑いのないところである。すなわち,熊襲征伐における神託物語や新羅征伐物語は本来,神話の範疇に属し,その原形は住吉神の霊感によって大帯日売が外征するといったような香椎宮にまつわる伝承であったが,それがのちに『古事記』『日本書紀』の原史料となった帝紀(ていき)・旧辞(くじ)の半島平定伝承のなかに取り入れられ,現在のような姿になったと考えられる。これらの物語がおとぎ話的にならざるをえなかったのも,以上のような事情によるであろう。要するに,この伝説は,朝鮮半島平定の伝承に息長氏や大帯日売の伝承が習合したものであり,それが7〜8世紀に古代天皇制のイデオロギーによって潤色され,やがて『古事記』『日本書紀』に定着したものと推測される。

〔参考文献〕三品彰英『増補日鮮神話伝説の研究』三品彰英論文集4,1972,平凡社

塚口義信『神功皇后伝説の研究』1980,創元社

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