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●神祇官 じんぎかん

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 神祇行政を管掌した中央官庁,古訓はカンヅカサ。中臣・忌部両氏がこれに任じ,近江令では神官といわれ,浄見原(きよみはら)令ではじめて神祇官とされ,大宝・養老令に継受された。太政官の外に置かれた特別官衙,律令の母法たる唐令には見えないわが国独特の制である。庁舎は宮城内,郁芳門の南わきにあり,東院と西院(斎院)とに分かれ,西院の構内には八神殿・正庁・南庁・西庁などの庁舎があった。正庁は北庁とも神祇官曹司ともいい,祈年・月次・新嘗などの諸祭には諸司がここに来て祭事を行う。東院は北庁・東庁・南舎・大炊殿をその構内にもっていた。職員は長官を伯といい,神祇の祭祀・祝部・神戸の名籍(みょうじゃく),大嘗・鎮魂・御巫(みかんなぎ,卜兆のこと),および官の事を総判するのを任とし,次官として大副(おおすけ)・少副各一人,大少祐各一人,大少史各一人,神部30人,卜部(うらべ)20人などが置かれた。伯の官位は従4位が相当であるから式部省治部省の卿(かみ)の下,同大輔(おおすけ)の上という位置づけであって,太政官の最高位正二位相当の左右大臣よりはるかに下位の格づけであった。

【伯家】神祇伯は神祇行政の最高位で,中臣氏が多く任じたが,原則として諸氏混任で,巨勢朝臣・石河朝臣・多治比真人・文室真人らが任ぜられた。花山天皇の皇孫清仁親王の御子延信王が1025年(万寿2)源姓を賜い臣籍降下して神祇伯に任ぜられてのち,子孫代々この官に補されるにいたり,この家を伯家と称して,伯に任ぜられるや王号を称するを例とした。白川伯家という。鎌倉時代以降はその勢力が衰え,神祇大副を極官とする卜部氏すなわちのちの吉田家が台頭し,神祇管領と称して実権を掌握するにいたったので,白川家では吉田家と対抗するため,あるいは神号を授け,伯家拝揖式の許状を出し伯家部類を編さんして,朝廷の神事を類聚して伯家の地位の宣揚につとめた。

【神祇官の衰頽】令制の弛緩とともに庁舎も傾廃し,朝廷の恒例・臨時の祭祀・神階叙授・二季の卜以外につかさどるところもなく,応仁の乱には殿社がすべて焼亡して再興ならず,神祇官旧地に仮幄舎を設けて細々と仕事をつづけた。1609年(慶長14)に吉田家が八神殿を神楽風の吉田神社に奉祀し,同社の斎場をもって神祇官代と称するに及び,令制の神祇官はわずかにその面影をとどめるのみの状態となってしまった。

【明治期の神祇官】王政復古・祭政一致を基本理念とする維新政府は,大宝令の制度をまね,1868年(明治1)4月,太政官の7官の1として神祇官を設置した。長官を知官事といい,神祇の祭祀・祝部・神戸の事を総判することをつかさどらせた。ほかに副知事一人,判官二人,権判官若干人という職員構成であった。翌年官制を改め太政官のほかに神祇官を置き,長官を神祇伯・祭典・諸陵・宣教を主務とし祝部神戸を管し,大少副各一人,大祐・権大祐以下の職員を擁して,ほぼ大宝令制に戻ったのであるが,1871年(明治4)には神祇官は神祇省となった。事務量その他から太政官外にとくに置く必要性が乏しかったのである。しかし,この官の存在中に社寺領の上知・神官世襲制の廃止・神官職制・神社規則などの重要施策が解決されたことは,高く評価される。神祇省はついで教部省・内務省内の社寺局・神社局,そして神社制度調査会の建議にもとづき,内務省の対局として神祇院の設置をみたのが,1940年(昭和15)の11月で,1946年(昭和21)2月をもってこの官制は廃された。

【八神】神祇官の八神殿に高皇産霊・神皇産霊などの産霊神,大宮賣(おおみやのめ)・事代主神御膳(みけつ)神など八神を奉斎し,天皇守護の神として,毎年の鎮魂祭には宮内省に招じて,その前で鎮魂行事がとり行われた。のち吉田家では吉田神社境内を,白川伯家では白川邸内の八神殿を鎮魂祭場とした。現在の宮中皇霊殿神殿の起因をなす。

〔参考文献〕阪本健一『明治神道史の研究』1978,国書刊行会