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●女性史・女性文化 じょせいし・じょせいぶんか

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 人類には男性と女性がありこの両者の存在によって現在まで歴史や文化がつくられ,継承されてきている。女性史や女性文化の対概念となるのは男性史であり,男性文化である。にもかかわらずこれまで前者のみが頻繁に問題となり論じられ,後者はほとんど触れられることがない。このことは実は従来の歴史や社会が男性を主体とし,男性の側からのみ把えられ,それが人類の歴史や文化のイメージとして定着してきたことを意味する。したがって歴史叙述において女性蔑視あるいは軽視があり,女性はほとんど登場してこないのが一般である。これを端的に示すものは歴史教科書である。男子の国有名詞の登場に対して女子のそれは極端に少ない。日本史高等学校教科書にはほぼ30〜25対1の割合である。固有名詞ばかりでなく事件や状況の説明の場合でも女性のかかわりが書かれることは少ない。

 女性の文化や活動が注目されるようになるのには,女性自身の社会的活動のひろがりがあり,女性のもつ能力の発揮や地位の向上が主張されるようになることによる。とくに19世紀の後半,ヨーロッパを中心とする女性文化への注目は女性史への関心をも生んでいった。初めは主として従来の歴史のなかにも登場していた女性や支配者の周辺の女たちとその活動であったが,女性の社会的地位の向上とともにしだいにさまざまな状況の女たちに注目するようになってきた。

 とくに第二次世界大戦を契機とする女性の社会的活動とそのパワーは文化の創造者として,また歴史への発言者として以前よりはより多くの関心を生み出してきている。しかし,まだ男性が強く,男性優先の社会では女性は自らの力を自由に発揮する場を一般的には与えられていないといえよう。

 そのなかで1960年代後半,アメリカを中心におこった「女性学」は各国の女性たちに強い勅戟を与え,女性文化や女性史の研究に新しい展望を呈示してきている。さらに国際連合による1975年の国際婦人年の設定は世界的規模で女性の地位の向上と男女平等などの気運を盛り上げ,「婦人に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」の批准が加盟各国に促されてきている。世界的な女性パワーの画期的な高まりがひろがってきているといえよう。したがって女性文化や女性史への関心は今ようやく一般の人々のものとなり,着実な歩みを期待されるにいたったのである。

 それは従来の専門家を含めた男性による女性文化への評価とも違い,女性史においても自ら異なった女性像を生み出しつつあるように思われる。すなわち,女性を興味本位や同情や単なる被抑圧者として扱うことなく,新しい分析視角をもって検討を加え,これからの女性像に連らなるものとして女性史研究を進め,女性文化を再構築することが求められているのである。

 ここでは,女性史研究の現段階において,日本史を中心に女性の歩みを概観し,それを通じて女性文化について述べることとする。

 女性史は大きく分けて原始時代と歴史時代に二分される。なぜなら原始社会はそれ以後の歴史社会が身分割であり,男女間にその原理が格差となって影響を現すのに比し,男女の差がないと考えられるからである。一般に狩猟や採集によって生活が成立する社会では,その生活は共同と協力によってはじめて可能であり,女性は女性ならではの,出産・授乳それに伴う育児はともかく,その他の面にには共同体の構成員として共に働いていたと考えられる。歴史社会に移行する農耕の初期の段階までは同じような状況がつづいていく。その場合歴史の発展段階として男女の間に乱婚時代があり,つづいて母系制または母権制が展開し以後さまざまな婚姻形態をとって今日の一夫一婦制になったとするモーガン・エンゲルスなどの説がみられるが,必ずこのような段階を踏まえるかどうかについては疑義が出てきている。

 日本の場合,原始時代の採集経済の縄文期では,食糧を求めて移動する生活からしだいに定着性をつよめ,弥生時代に入ると農耕を支えとする定着生活に変わる。その生活は小人数の小集団(数家族)を単位としており,この小集団が集って地域集団をつくっていた。

 原始時代の女性を表すものに土偶がある。土偶はその豊満な乳房と陰部を表現する形態から女性像と考えられ,宗教的・呪術的性格をもって扱われたと思われる。土偶が女性像であるのは,女が生命を生むからであり,そこに霊力を認めたからであろう。このような女性の存在は,歴史時代に入っての邪馬台国の女王卑弥呼をはじめとして古墳に葬られた女性あるいは埴輪の座女の多さなど,祭祀を伴う政治の中心に女性があることにもつながる。しかし原始から古代にかけては男女の同権同格による男女の役割の互換,性別分業の不明確性が指摘され始めており,霊的な女性をどう考えるかは今後の課題である。

 従来,乱婚や一妻多夫・母系制などがこの時期に想定されてきた。しかし最近,父系・母系双方の血縁紐帯によって形成される親族組織の共同体から,自立しないままに,婚姻形態は夫方・妻方・新居などさまざまであることが主張され,高群逸枝が大著『母系制の研究』で明らかにしたことは父系制(家父長制)の主張に対する母系制の証明であったと考えられるようになってきている。文化人類学による親子・同母兄弟姉妹らにおける近親婚の禁止などからみても,乱婚の状態は考えられず,一妻多夫の指摘も母子集団中心の場合は父はその集団の恒常的・固定的メンバーに必ずしもなりえないことの反映であるとされている。農耕経済の進展について,社会構造は社会的平等性を失い,支配と被支配の体制を形成し,身分社会を生み出してくる。この状況の中で上層階層ではしだいに男権が強化されていったとみられ,自ら女性の地位は低められ,従属化にむかった。この男性の社会的優位性は中国大陸の文化の影響を多分に受け,とくに大化時代以降,儒教的な思想を背景とする律令制の導入と確立をへて,家父長的な夫娼婦随・一夫多妻制をみることになった。

 そのなかで6世紀から8世紀にかけて8代の女帝をみることができる。592年に即位した推古天皇を初め,皇極・斉明(皇極の重祚)・持統・元明・元正・孝謙・称徳(孝謙の重祚)である。ちなみにこれ以降江戸時代の明正・後桜町を除いて女帝はない。古代の女帝のなかには推古・持統両天皇のように政治力をもった人物もあり,天皇の側近にあって活躍した橘三千代・光明皇后・橘嘉智子などや政争の中心にあった額田王(壬申の乱)・藤原薬子(薬子の乱)もある。光明皇后は仏教に帰依し,法華寺建立や慈善事業に力を尽したことで著名である。また万葉集に名をとどめる女流歌人もある。それらは貴族層の貴族社会の枠内で和漢の教養を深めた特例にすぎない。

 王朝国家体制期に入ると藤原摂関体制にからんで,娘たちは皇后や中宮として政争の具となり,これらの後宮に女官・女房が多く仕え,10世紀から11世紀にかけて文学的作品を生みだした。貴族社会における才女たちである。現在,世界文学としても注目されている『源氏物語』の作者紫式部ほか,『枕草子』の清少納言,和歌の和泉式部赤染衛門など,みごとな女性文化は日本文学の花でもある。女流作家たちの出身は中・下層の貴族であり,この階層は京都ばかりでなく多くは地方官吏の生活を送っており,娘としてあるいは妻としての経験は,彼女たちの仕える女たちが父兄の権勢欲の犠牲となっていることを見すえ,するどい観察眼をもって貴族社会を描きだしたといえよう。

 律令政治の進展するなかで民衆は口分田を班給され,良民の成人男子の2段に対し女性はその3分の2となっているが,租・庸・調などの納税は戸ごとにかけられ,女性もそれらを負担する重要な働き手であった。ただし男性中心の支配原理の体制に対応を要しない部分の民衆生活は『万葉集』にみられるような大らかさがみられる。『万葉集』には野に草をつみ,山に若葉や木の実をとり,農業を行い,川や海の魚貝類を集め動物の類を調理したであろう女性の姿があり,衣をつくりあげるよろこびがうかがわれる。さらに母の目をはばかりながら通ってくる男をまつ女があり,愛の表白の歌は巧みで心をとらえる。さらに防人の妻の姿は心を打つものがある。一般民衆の生活は班田のみで成立しているわけではなく,班田制の崩壊と荘園制への移行の過程で,女も戸籍をいつわったり,家族共ども有力者の荘園に逃げ込む状況もみられる。

 律令制の後期王朝国家の中心は平安京であり,時代が下るにつれて町も繁栄していった。扇面写経の下絵や『年中行事絵巻』などには都の周辺から魚介類・野菜・薪などを頭上にのせて売りあるく販女があり,商いの店にも売り手や買い手の女たちの姿がある。町女の顔は引目かぎ鼻で髪も無雑作に束ねて短い。小袖に褶(腰裳)をまとって着流しに細い帯でくくっている。働く女たちは労働にふさわしい姿である。

 一方,遊女・傀儡・白拍子など遊芸や売春にむかう女性も増えてきている。貴族や地方豪族のそして台頭する武士たちの慰みものとなった。富と権力をもった支配層の男たちにとって隷属する女への同感はない。 中世に入って権力の座に登場したのは鎌倉幕府を中心とする武士である。武士の場合,嫁入婚が一般で嫡妻の地位は高いが妾をもつことも多い。しかし女子の家督相続を許し,後家や女人が地頭御家人となることを認め,女子に婿養子をとることも公的に規定されている。財産の分割も行われている。もっとも女子の割合は少なく,永代譲渡から一期分(分与をうけた女が死ぬと実家の嫡子へ返還される)となることが鎌倉中期からみられるが,女性による売買や譲渡権の存在は女性に財産権があったことを示し,それは女も一族・一門の内にあったことを意味する。公家法よりも女性に許容する範囲が広い武家法は農村を基礎とする習俗の反映であろう。

 鎌倉幕府をはじめとして,地方武士の女たちの活動も注目される。京都朝廷との勢力の拮抗とその独立に力を発揮したのは初代の将軍源頼朝の後家北条政子であり,尼将軍といわれた。政子の父執権北条時政の継室牧の方も策略家である。一般武士の女たちも所領の訴訟をおこしており,幕府の対応は男女のあいだに公平を欠くことはなかったとみられる。京都の貴族藤原為家の継室阿仏尼は実子に家領を相続させる,訴訟を鎌倉幕府におこし,その旅日記を『十六夜日記』として残している。幕府への期待が長旅をあえてさせたのであろう。

 次の室町幕府にも8代将軍足利義政の妻日野富子があり,新関をたてて課税し米相場に関係し蓄財能力を発揮した。子義尚を将軍職につかせるため山名宗全細川勝元の対立をひきおこし,応仁の乱の原因となった。権力の中枢にあってこれほど社会的影響の大きかった人物もあるまい。

 さて,こうした中世武士にあらわれる女性の状況を,高群逸枝は古代の母系制の流れから南北朝期を画期とする家父長的家族の成立と相まって,女性の財産権が消滅し,女性の地位も低下するととらえた。しかし,一夫多妻の状況・家父長権の存在・夫の妻財産の管理などは鎌倉期にもみられる。一方,中世後期にあっても女性の財産権が存在しないだけでなく,土地の耕作権を女性に惣村が保証していることもある。これらの事法は単独(男性嫡子)相続によって自己の領主権を強化するか,分割相続(女子を含め)による族縁的領主制を維持するほうが有利であるかの地域状況によるとみられる。後者の場合には女性の存在も意味がある。この差を東国と西国の地域差として捉える説もあることをつけ加えておこう。

 中世後期において目立つ変化は,貨幣流通の拡大によって商工業に女性が進出したことである。『七十一番歌合』やその他の職人歌合あるいは狂言の類に生産や交易に働く多くの女性像をみることができる。酒・餅・米・豆・素麺・麺・豆腐・魚などの飲食物,白布・綿・帯などの衣料その他ひきれ(合子・皿など)・帯・疊紙などさまざまを振売し,あるいは店棚で売り,紺掻・機織・縫物・紐物などの手工業を行っている。この時期に一般的にみられる民衆の下剋上の活気のなかで,女たちも新しい経済活動の分野に喰い込んでいったのである。狂言の家族像は夫婦のきずなが固く,女は知恵者であり気が強く,わわしい女(本来はうるさいの意であるがむしろしっかり者を意味する)という表現で出てくる。女は生活に密着した,したたかさをもって,男を選択し,説得し,協力体制をとっていくのである。

 戦国時代に入ると上層階層は決定的に男性優位となる。女性は政略伸長のための物にすぎない。織田信長の妹(お市の方)とその3人の娘はその典型であり,悲劇の一生であった。主は母も姉妹も娘も,縁者の家臣の女もすべて自由にし,女性もそれに殉ずることをよしとした。こうして女性の地位は社会的にはもちろん,家庭内でも低下し扶養の対象となり財産権もなく,無能力視されるにいたった。上層における女性の人格無視は売買や質入れの対象とされたし家父長権は強化されて家の存続のために〈女の腹はかりもの〉といわれ,男尊女卑は当然とされた。

 中世を通じての仏教の普及は女人成仏を説きながら女の業を描いて,女の隷属性をつよめる役割を果した。

 幕藩期の支配層は,儒学とくに朱子学が封建社会の秩序意識として支配者の拠り所となり,身分の上下・男尊女卑が固定化され,その分を守ることが制度的にも強化された。女性は幼くして父に従い,嫁しては夫に従い,老いては子に従うという一生従属の三従の教を説かれ,自らの意志なく“お家大事”の家父長権のもとに生涯を終えた。大名の妻は幕府の所在地の江戸に人質として置かれ,関所では〈入鉄砲に出女〉として女は厳しく吟味された。

 支配層は多くの教訓書,いわゆる“女大学”といわれる女訓書を流布し,『考節録』などによって具体的な理想像を示し仏教や石門心学を通じて大衆に語りかけ,教化政策をすすめた。したがって徳川300年のあいだの女性の文化活動は太平がつづいたにも拘らず,あまりみられない。歌舞伎おどりの祖となった出雲の阿国,文学の荒木田麗女・只野真葛・加賀の千代女,その他産業に貢献した久留米がすりの井上伝(1788〜1869)くらいで,幕末の動乱期に若干の活動家を数える程度である。

 しかし民衆の側からすれば,封建支配は武家法と庶民法の別によって直接的ではなく,地域的特色を保持していった。たとえば前期にあって嫡子単独相続は一般的ではないし,女子も相続の分割を受けたと考えられる。しだいに武家的な倫理が浸透していくが,それは名主・在家など本百姓の上層からであって,姉家督・末子家督・隠居制を伴う長子家督など相続もさまざまな地方色をみせ,婚姻の形態も嫁娶婚に限られない。

 当時の農村労働は家族労働の協業によって成立つものであり,女も重要な働き手であり,家庭生活における地位は低くはない。民俗学などによって明らかになってきているように,“エヌシ”“イエトウジ”“ダイコクバシラ”といわれ,〈家はカカでもつ〉とされ,主婦の役割は主人と共に重い。幕藩成熟期以降,さまざまの商品的農業がひろがっていくと女の労働への期待はより大となっていったとみられる。

 一方,都市は士農工商の封建社会にあって重要性は低く,工商にたずさわる家の女性たちは比較的自由があり,遊芸をたしなみ,物見遊山に興ずる女たちの姿が見られた。

 しかし封建社会において著しい繁栄をみたものに遊里がある。江戸の吉原・京の島原・大坂の新町・長崎の丸山をはじめ各地に存在し,芸妓も多がったが,湯女・夜鷹・山猫・飯盛など,売春に落ちる女たちも多い。貧しい農民や町人の女たちが売られてきており,そのほとんどが短命で無縁仏となった。

 幕藩制下に浸透をみた男尊女卑の風潮は,明治維新をへて欧米の文物が流入した後にも遺制として生きつづけた。かつての支配層が近代国家の樹立を推進した人々でもあったから,その儒教的教養は自ら政策理念に反映したといえよう。“家”は国家の基礎となり,天皇制家族国家観が日本の特色=国体を示すものとなった。1898年施行の民法では,家父長権が強く,〈子ハ父ノ家ニ入〉り,妻は〈夫ノ家ニ入〉り,妻の財産の管理権は夫にあり,〈日常ノ家事ニ付テハ妻ハ夫ノ代理人〉であり,重要事頭の決定は準禁治産者と同様に夫の許可を受けることが必要であった。したがって教育制度も男子と女子に差別がある。共学を認めず,男女別系統とし,女子は男子に比し,低度の中等教育を高等女学校と称し,高等教育には無用,尚早の態度をとり,大正期にようやくごく少数の入学を男子大学に認めたにすぎない。女子教育は良妻賢母主義をその方針とし,家政婦と子の育成がその役割として固定化された。

 一方,資本主義体制をとり殖産興業をめざした日本は,まず軽工業を中心に発展をみた。その経済的基礎は農村にあり,農民の階級分化を推進したので,貧しい農家の娘たちは細井和喜蔵『女工哀史』にみるように出稼型低賃金・劣悪な労働条件に耐えて,製糸紡績業などで働きつづけた。日本近代の資本主義はこの女工哀史の上に成立ったといえよう。

 近代国家成立の初期には文明開化の息吹きを受けた女性もみられる。キリスト教の解禁によって教会と教育機関が積極的に女子に働きかけ,神の前の男女の平等を示し,婦人矯風会などキリスト教系の婦人団体は禁酒・純潔・一夫一婦制の提唱など社会啓発を行った。盛り上がる自由民権運動にも有名(岸田俊子景山英子など)無名の女たちが加わった。つづいて明治中期には樋口一葉与謝野晶子など文学界の注目をあびる作家が出てくる。

 良妻賢母主義の女像が確立する明治末期には,平塚らいてうを中心とする「青踏」が発刊され,世評に拡大するなかで自ら“新しい女”を称し大正デモクラシー期の女性文化の原点となった。第一次世界大戦を契機とする独占資本主義の確立は多くの職業婦人を生み,多くの婦人団体の成立をみた。明治期の婦人が,従来の自営業(農・漁・商工業など)のほかに女工・女中・看護婦・産婆・教員くらいなものであったのが,多党の事務員・店員・洋裁師・美容師・医者・記者などになり,バスの車掌や女優は社会の注目の的となった。婦人団体もさまざまな目標をもって活動し,団体相互の交流と連帯もみられる。明治期が婦人の覚醒を促した時代とすれば,大正期は活動にむかった時といえよう。したがって個人的・内面的なものから社会的な働きかけが拡大し,平塚らいてう・市川房江・奥むめおらの新婦人協会などの活動によって,治安警察法第5条の改正に成功,婦人の政治活動の第一歩を印している。女性の社会的進出は女性の生活状況の変化を示し,いわゆる“女性文化の時代”を生み出した。何よりもジャーナリズムの反応が顕著であり「婦人公論」「主婦之友」などさまざまの傾向の婦人雑誌が次々と創刊された。その中で母性保護論争もおこった。

 関東大震災を契機に生活の変化はすすみ,罹者救援の前に婦人団体が結束し,普通選挙権獲得運動につながった。また,衣・食・住など生活面での洋風化もみられ,市民階層を中心に生活改善運動が推進され,職業進出はよりひろがった。

 しかし満州事変にはじまる15年にわたる戦争は女性を巻き込み,女性も戦いを荷うこととなった。国家をあげての強力戦は,家の女としての理想像と現実を甚だしく乖離させ,暫時動員によって工場に農村に鉱山に集められ,女性労働禁止の分野まで,あるいは年少の子どもまで生産に参加させた。一方戦士を生み育てかつ戦意高揚のために母性尊重をうたって国家への奉仕を求めた。婦人団体も婦人ジャーナリズムも戦時体制に即応した。敗戦に近く全国各地で悲劇が生じ,沖縄ではひめゆり部隊が組織され戦いに殉じた。

 戦後,アメリカを中心とする占領軍は日本の五大改革の一つに婦人解放をあげた。戦後民主主義の高揚のなかで,また,生活苦のつづくなかで女性も自立性を強め,活発な活動が可能となった。高度経済成長期に入ると生活構造が戦前と全く異なり家庭の変化や簡便化がすすみ,消費生活は拡大し,既婚婦人を含め就業率が伸びた。しかし職業選択・賃金・労働条件など依然として女子労働は低位置にある。しかも家庭内労働は主婦にしわよせられ,家族崩壊や老人問題も身近かに解決を迫る課題となっている。女性の歴史を振り返ると,生活と切り離せないところに女の生き様がある。この生き様を核に女性文化を問うことが,今後より求められることであろう。

〔参考文献〕『高群逸枝全集』10巻,1966〜67,理論社

井上清『日本女性史』1976,三一書房

女性史総合研究会編『日本女性史』5巻,1982,東京大学出版会

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