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●女真 じょしん

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国東北地方(旧満州)の東半部,松花江・牡丹江・黒竜江下流域・沿海州に住んだツングース系の民族。遼・宋代(10世紀ごろ)以後,女真と呼ばれる。また女直とも表記されるが,これは遼の興宗の諱である宗真の“真”を避けたものといわれている。一般的には,遼・金・元・明の記録には“女直”とみえ,宋や朝鮮の記録には“女真”とでている。女真の祖系にあたるものは先秦の古文献に記録される粛慎・息慎,漢・魏のころ(2,3世紀)の把婁(ゆうろう),北朝代(6世紀)の勿吉(もつきつ)である。隋・唐代にはこの地域の民族は靺鞨と総称され,7部に分かれていた。渤海国(698〜926)が建国されると,黒水靺鞨を除く,ほとんどが渤海国の支配下に入った。遼が渤海を滅ぼすと,その旧民であった靺鞨は女真と呼称されるようになる。女真という語の意味は,のちの満州語のシュセン(民の意)と同じであろうと推定される。女真とは“渤海の旧民”の意であろう。遼代の女真は部族に割拠して支配されるが,最も未開な黒水靺鞨豆満江流域から朝鮮の咸鏡南北道にわたる地域に移動した。これらを遼・高麗は黒水女真・東女真と呼んだ。これらの女真を中心にいまだ未開な女真を総称して生女直といった。また,吉林省南西部にいた比較的開明な粟末靺鞨を主体とした女真を熟女直といった。遼東地方の遼の版図内に居住した曷蘇館女直も,熟女直のなかに分類される。

 生女真はしだいに中国東北部の東半に居住地域を拡大していったが,遼の覊縻政策下,海東青(鷹狩り用の鷹)など種々の貢納を要求され呻吟した。彼らは狩猟と河川漁撈とを主要な生業とし,低度の農耕・家畜飼育を併せ行い,また遼・高麗両王朝の国境地帯において毛皮・金・馬などの交易を行った。

 11世紀の末ごろになるとしだいに民族的に覚醒し,ハルビン東南方の松花江の支流按出虎水(アルチュフスイ,現黒龍江省阿城県付近)の畔からおこった完類部(ワンヤンブ)を中心に生女真のあいだに統一の機運がおこった。完類部女真はまず松花江流域を征覇し,12世紀初めにはさらに東南方へ進出し豆満江流域,朝鮮の咸興平野・興凱湖方面を支配下に入れた。首長阿骨打(アクダ)にいたって,寧江川の戦いで遼の天祚帝の派遣軍を撃破し(1114),ついに自立。翌年金帝国の成立をみた(首都上京会寧府)。ついで,第2代太宗の時代には,遼を滅ぼし(1125),華北に進出し,宋を江南に駆逐した(1126)。第3代の煕宗のときには,南宋と淮水および陝西の大散関の線で対峙することになった。この女真族の発展の原動力となったものは,女真族独自の共同体を軍事・戦闘組織に編成した猛安・謀克の制であった。金の領土的発展に伴い女真族の相当数が華北に移動させられたが,すべて猛安・謀克を単位に移動し屯田せしめられた。華北に定着した猛安・謀克戸はしだいに窮乏し,王朝の幾度かの救済政策も空しく,窮極には王朝自体の衰亡の一要因となった。

 12世紀末になると金は新興のモンゴル族に攻撃され,1234年最後の都ベンキョウ※注1※が占領されて滅亡した。華北に移住した女真族は殺されたり,多くは中国人に同化した。東北に残存したものは,モンゴル帝国の支配下に入り,一部の首長はその支配機構に組み込まれ,その発展は抑えられた。14世紀後半,明が興り,モンゴル帝国が倒れると明は東北地方からモンゴル族を駆逐したので,女真族は明に服属した。明は遼東地方を直轄支配し,ここを根拠地として女真族をいわゆる覊縻的支配下においた。すなわち各地域の女真各首長の在地支配の構造を巧妙に利用し,明の軍制である衛所に組織し,官職と交易権を与え,相互に牽引させることにより政治的統合の形成を抑えた。

 明代の女真族は建州女真・海面女真・野人女真に3分類されるが,16世紀末,明の女真諸族への支配が弛むと,建州女真出身の一首長ヌルハチ(奴児哈赤)が満珠国(後金国)を樹立した(1616)。サルホの戦いで明・朝鮮連合軍を撃破(1619)。第2代太宗のとき国号を大清と改めた(1636)。

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