●徐光啓 じょこうけい
アジア 中華人民共和国 AD1562 明
1562〜1633(嘉靖41〜崇禎6) 中国明時代の政治家。キリスト教に入信したことから,西洋科学を学び,これを紹介した。また『農政全書』のような中国古来の農学者の所説を総合した著書もある。彼は字(あざな)を子先,諡(おくりな)を文定といい,上海に生まれた。1592年(万暦20)北京で郷試を受け,首席で合格したが,翌年の会議に失敗して,郷里に帰った。この帰省中にマテオ=リッチの著した世界地図を見て感激し,南京に出てリッチを訪ね,天主教の原理について聞いたが,このときすぐに信者にはならなかった。1601年(万暦29)上京して2度目の進士試験を受けた。実力は十分であったが試験官の手違いによって落第してしまった。この不幸によってはかなさを感じた彼は入信の気持をいだいて南京にリッチを訪ねた。しかし,リッチはすでに上京していて南京にはいなかったので,代わりの西洋宣教師から天主教の奥義についての教育を受け,1603年(万暦31)初頭に受洗した。1604年(万暦32)の試験では310人の合格者のうちで123番の成績で合格し進士となった。やがて翰林院庶吉士に選ばれ,北京で勉学にいそしんだ。北京ではリッチの教宅のそばに居を構え,西洋科学の学習につとめた。その結果,1907年(万暦35)リッチとの共著といってよいユークリッド幾何学の前半部の漢訳である『幾何原本』が公刊された。この年翰林院検討に任じられたが,父の喪に服するために郷里の上海に帰った。この地に滞在中,西洋宣教師を迎えて布教に従事させ,ここに有力な信者団が形成される基礎をつくった。1616年(万暦44)に天主教迫害が南京を中心として発生するや,彼は積極的な護教運動を展開した。1623年(天啓3)礼部右侍郎となり,ついで礼部左侍郎に昇進した。崇禎帝は彼に愛顧を加え,1630年(崇禎3)には礼部尚書に任じた。謬りの多い中国暦法を改訂するためには西洋暦法によるほかないと考え,自ら宣教師とともに西洋天文暦学書の漢訳に従事した。その成果が『崇禎暦書』である。大学士となり枢機に関与するようになったが,病のためその才能を十分に発揮することなく死んだ。
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