●織豊政権 しょくほうせいけん
アジア 日本 AD
日本近世社会の支配体制を創出した織田信長と豊臣秀吉の政権。信長によって室町15代将軍足利義昭が1573年(天正1)から,徳川家康が江戸幕府を開いた1603年(慶長8)までの31年間は日本の歴史上重要な転換期ととらえることができる。それは中世社会における封建制・荘園制をはじめとする分散的・割拠的な諸体制が織豊政権の発端により政治・経済・社会・文化などあらゆる面で変革がみられ,その結果近世的な集中・統一が創出されるといったいわば中世的封建制から近世的封建体制(幕藩体制社会)への転換を重視する理解による。信長の統一は五畿内とその周辺諸国にとどまったが,これらは惣結合を核とする郷村制が発達し,それを基盤とした一揆が多く展開した地域であった。信長はこの一揆(とくに一向一揆)と徹底的に戦いぬき,その根絶をめざした。また安土築城とともに直臣団とその妻子を城下に集住させ,在地からの切り離しをめざし信長に対する家臣の絶対的服従が要請され,それまでの戦国大名とその家臣団が有していた相互誓約的あるいは一揆契約的関係を否定しようとした。信長の晩年は正親町(おおぎまち)天皇に譲位を迫り,朝廷の征夷大将軍への補任意向を拒否し,自身を地上の神として公・武寺社などの諸権門を超越する最高権力者にまで高め,強力な統一封建権力の創出をめざした。秀吉はこれを継承して全国統一を果たし,刀狩りと太閤検地によって一揆の解体(農民の武装解除)と兵農分離を推し進め,村落内部における有力農民の名主的土地所有の否定とともに温存されていた剰余労働(年貢・夫役)が統一政権のもとへ吸収され,この過程で石高制が成立し,大名への軍役が整備されていった。こうして秀吉の段階で武士の在地離脱・城下町集結はいっそう進み,また統一戦争遂行の必要から,大規模かつ新しい交換,流通経済体系の創出に迫られた。楽市楽座・関所撤廃・道路整備などは信長の政策を継承したものであるが,豪商との結託による東アジア貿易の活発化,城下町の造成と振興,通貨の統一および金銀貨の鋳造,さらに金銀銭貨の比価公定などは信長以上の積極性をもってのぞみ,これらによって全国の都市と商工業は発展をみたのである。秀吉の統一政権を財政的に支えたのは,農業・手工業生産力に富む畿内を中心とする全国約220万石の直轄領と京・大坂・堺・伏見・長崎といった都市や佐渡・石見・生野といった鉱山の直轄化および貿易の独占による利益であった。また政治組織としては豊臣秀次追放直後の1595年(文禄4)秀吉を頂点とし,五大老・五奉行を中心とする統一封建権力機構が形成されていった。さらに,石高制や大名統制を基因とした,軍役体系の貫徹・徹底を目ざすことを目的として2度にわたる大陸(朝鮮)侵略を行い,国内の矛盾を対外的に処理しようとしたが,秀吉の死を機に撤退し,権力機構は一挙に崩壊,家康の台頭,関ケ原合戦へと進んだ。こうした織田・豊臣両氏による政権を,中世社会から近世社会への歴史的転換との関わりでどのように理解すべきか,という観点で提起されたのが“織豊政権論”である。これには諸論があるものの,大別すれば,一つは“織豊断絶論”,一つは“織豊連続論”である。“織豊断絶論”というのは,織田政権と豊臣政権とあいだに大きな断絶をみようとする理解であり,中世と近世との画期を織田と豊臣政権のあいだにみようとする考えである。が,これにはさらに二つの考え方がある。一つは織田政権は太閤検地で農奴制が成立する以前の権力,すなわち家父長的奴隷制に基礎をおいた権力であるとするものであり(佐々木潤之介「幕藩制国家の成立」『政治史II』1965,山川出版社),もう一つは,封建制再編成説の視点から織田政権を戦国大名と同じ権力的性格をもつ中世最後の権力と規定するものである(脇田修「織豊政権論」『講座日本史4』1970,東大出版会)。これらに対する“織豊連続論”というのは,織豊両政権の相違を認めつつも,全体としてそれらは相互に共通し連続するという性質・法則面を積極的に評価するものであり,織豊政権以降を近世社会とする考え方である(朝尾直弘「近世封建制論をめぐって」『日本史の発見』1969,読売新聞社)。いずれの説もこのあとの徳川政権との関連を視野にくみこんでいるが,今後,新史料の発見・解釈により一層の研究深化が期待される分野である。