●稷下の学 しょくかのがく
アジア 中華人民共和国 AD
中国,戦国時代斉の威王から襄王の時代(前367〜前265,桓公9〜,襄王19)にかけて,斉の都リンシ※注1※に各地の学者を招き,稷門の付近に学問所と広荘な邸宅を与えて保護したことから,そこで発達した学を「稷下の学」という。古くは孟子が威王のもとに身を寄せたのを初め,70人以上の学者が集まった。つづく宣王の時代には陰陽五行説を発展させた鄒衍や道家の田駢,道家から出て法家に近づいた愼到など,多彩な学者が論争したといわれる。この環境でさまざまな学説の折衷がすすんだが,特定の説に統合されることはなく,百家争鳴であった。稷下で伝えられた学問にはこのほか公羊春秋があり,漢代にいたって国学化したことは有名である。また『管子』や『周礼』考工記なども稷下でつくられたらしい。稷下の学は戦国諸子百家の発展の母胎となったといえよう。しかし宣王の後荀王のときに政情不安から学者が離散し,昔日の面影は失われた。稷下の学士の最後の長老として重きをなしたのは荀子であった。
![]()