●承和の変 じょうわのへん
アジア 日本 AD842 平安時代
842年(承和9)におきた疑獄事件。『続日本後紀』によると,この年嵯峨上皇が崩御した直後の7月17日,春宮坊帯刀(とうぐうぼうのたちはき)・伴健岑(こわみね)・但馬権守橘逸勢(はやなり)らの謀反が発覚して捕えられた。健岑らが上皇の崩御に乗じ,阿保(あぼ)親王をそそのかして謀反をおこそうとしたが,親王はこれに応じず,太皇太后橘嘉智子(かちこ)に密告したのが事件の発端であるという。太后は中納言藤原良房に命じて仁明天皇に報告させたが,朝廷は健岑・逸勢らを流罪に処したばかりでなく,淳和上皇の皇子である皇太子恒貞親王も関知していたと断じて廃位し,仁明天皇の皇子で,良房の妹順子の生んだ道康(みちやす)親王(文徳天皇)を皇太子に立てた。この事件には不可解な点もあり,真相は不明というほかはないが,少なくともこれを廃太子にまで拡大したのは,良房らの策謀とみてまちがいなく,藤原摂関政権の成立に大きく道を開いた事件である。