●浄瑠璃 じょうるり
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三味線の伴奏によって語る“語り物”音曲である。説経や謡曲・祭文などとともに室町時代中期文明のころより行われたといわれる。本は地の文を詞とからなり,とくに地は音律豊かに語る。わが国の語り物の歴史は古く,広義にとらえるならば『古事記』にみるように語り部が語った神話に遡ることができるが,平安朝中ごろには琵琶法師による物語が行われており,鎌倉期に『平家物語』を語る“平曲”につながったものと思われる。他方,仏説を説く“説教”があり,室町時代に入ると簓(ささら)・鉦・羯鼓(かっこ)などの伴奏で社寺の縁起や神仏の霊験譚を語る“説経”が誕生した。こうした状況のうちに室町中期の15世紀末ごろに「浄瑠璃姫物語」(浄瑠璃十二段草子とも)という新手の語り口の語り物がはやった。奥州へ下る矢若丸と宿を貸した三河の矢矧の長者の娘浄瑠璃姫との恋愛物語である。姫は浄瑠璃教国の教主薬師如来の申し子として浄瑠璃の名を負っていた。ここから浄瑠璃の名が使われるようになった。16世紀には座頭たちが語っていた。語りの節付けは先行の平曲・曲舞・祭文・説経等の影響を受けたと思われるが,16世紀中ごろ琉球より三線(蛇皮線)が渡来し,胴皮が猫皮に改良された三味線が出現するに及んで,三味線が琵琶にとって代わった。ここに琵琶の叙事性と三味線の叙情性を兼ね備えた新しい語り口の創造が可能になったのである。琵琶法師が三味線語りに変身したわけだが,彼等は西の宮の傀儡子と結んで,人形浄瑠璃芝居の端緒をつくった。中世末から近世初頭にかけて「牛王の姫」「阿弥陀胸割」など宗教的題材の人形浄瑠璃が上演された。人形浄瑠璃は1685年(貞享2)大阪で近松門左衛門作の「出世景清」を竹本義太夫が語って,以後飛躍的な発達を遂げるが,この竹本義太夫の節が“当流”と称賛されるに及んで,それまでの諸流の節は“古浄瑠璃”と呼ばれて区別され,“義太夫節”が浄瑠璃の代名詞となった。戯曲的完成度の高い義太夫節に対し物語中心の古浄瑠璃には定型的な安定した語り口がなかったらしく,江戸・上方ともに諸家が輩出した。江戸では京から下った杉山丹後掾の門系から肥前節・語斎節・半太夫節,同じく江戸下りした薩摩浄雲の門系から金平節・外記節・土佐節などが出た。とくに“金平浄瑠璃”は荒事風な演技にむいていて16世紀中葉の江戸浄瑠璃界を風靡した。上方では女太夫の六字南無右衛門が古く,浮雲の弟子の虎屋源太夫が上京して活気を取り戻し,その門系から播磨節・嘉太夫節などが生まれたが,同じ門系の大坂の清水理兵衛の門下から竹本義太夫が現れた。井上播磨の芸風に,対照的な嘉太夫の芸風を加味し,そのほかの音曲も摂取して義太夫節を大成したという。義太夫は1684年(貞享1)に竹本座を創立したが,弟子の豊竹若太夫が1703年(元禄16)に豊竹座を開設し,前者の芸風は西風,後者は東風と称された。しかし,義太夫節を完成したのは二代目義太夫を名乗った竹本政太夫であるといわれる。
義太夫節浄瑠璃は人形浄瑠璃だけでなく,歌舞伎にも竹本またはチョボの名で参加している。また,座敷浄瑠璃化したものもあった。浮雲門系から京都で“一中節”が生まれ,その系列が江戸に下って豊後節を生んだ。また,江戸では外記節を経て“大薩摩節”が生まれている。一中節は柔かな節付けで歌舞伎から座敷芸に転じ,大薩摩節はその豪快にして軽快な曲調で歌舞伎に溶け込んでいる。大坂の義太夫節・京都の一中節に対して江戸では半太夫節門下の“河東節”が流行した。高音域で派手で軽快な浄瑠璃である。しかし,現在なお歌舞伎浄瑠璃(特に舞踊)の主流をなすのは一中節から出て江戸で育った豊後節系浄瑠璃の“常磐津節”と“清元節”である。〈河東上下 外記袴 半太羽織に義太股引 豊後可愛や丸裸〉という狂歌は諸浄瑠璃の性格をよく示している。豊後節系にはこの二流のほか富本節・薗八節・宮薗節・新内節などがある。浄瑠璃は語るものというが,義太夫節のような人形浄瑠璃用以外のものを唄浄瑠璃と呼ぶことがある。説経節も説経浄瑠璃と呼ぶことがあるが,説経節は本来の浄瑠璃ではない。なお,三味線は大坂・京都・江戸の好みを反映してか,義太夫が太棹,豊後節系が中棹,河東節が細棹と浄瑠璃によって異なる。新内節では上調子を加える。
〔参考文献〕芸能史研究会編『日本の古典芸能』7「浄瑠璃 語りと操り」1970,平凡社
東京音楽学校邦楽調査係編『近世邦楽年表』六合館
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