●条里制 じょうりせい
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古代の律令国家が班田収授にもとづく口分田の班給を実施するために耕地区画を行った土地制度である。この区画は東西線と南北線を6町(654m)の幅で区切り,この6町4方の1区画を里と呼び,東西列に並ぶ里を南北方向に1条,2条……と呼び,南北列に並ぶ里を東西方向に1里,2里……と呼び,さらに里の各辺を1町(109m)幅で6等分し,36区画して,1区画を坪と呼んだ。坪にたいして里の1隅を起点として1の坪から36の坪までの番号をつけた。この番号のつけ方に並行式と千鳥式がある。さらに坪の中を1辺を6歩(11m)ずつ細長く10等分して長地型の1段歩(10a)に地割したり,1辺を12歩ずつ5等分して半折型の1段歩に地割した。条里制における最小の地割単位は1段歩であり,どの1段歩も何条何里何坪何段目と正確に明示できる。条里制の地割は東西線と南北線を正方位にすることが原則であったが,さまざまの理由からかなり方位がずれている地方が多い。【起源と消滅】条里制の地割の前身は阡陌制という方格地割であり,大和朝廷の直轄領の屯倉やほかの強大な局地的政権の支配地に行われた。これは権力者が農民の貢租の均等化をはかるために新設したという説と村落共同体の成員の利益を均等化するために以前から行われてきた土地の定期的割替制を新制度化したという説がある。文献的には,555年(欽明天皇16)に吉備五郡に白猪屯倉を置き,蘇我稲目をして渡来人を田部とし,人口調査をし耕地を分配したことがあり,この土地割は阡陌地割であった。645年(大化1)の大化改新において1町方格の地割を行い,公地公民制の下に班田収授を実施し,7世紀後半から8世紀半ばにかけて律令国家の勢力範囲にこの方格地割が施行された。奈良時代や平安時代の文書には田畑の所在は条・里・坪の呼称によって示された。条里制は公地公民制と班田収授法が廃止となればその本質は消滅する。その消滅のプロセスは723年(養老7)の開墾地を私有とする三世一身法を施行したり,743年(天平5)の墾田永世私財法を発令して公地公民制は崩れ,902年(延喜2)から班田収授は行われず,1005年(寛弘2)から人口調査も行われないので,条里制という土地制度はもはや消滅したといえよう。しかし条・里・坪の呼称は律令国家が解体した後も使用され,鎌倉・室町時代につくられた荘園図に条里名称を使用した土帳や絵図がある。
【条里集落】条里制の下の集落は条里区画の1里すなわち36坪の耕地を経営する集落が1坪を宅地とし,これを4行8門の道をもって32に等分し,30戸の宅地とし,残りの2戸分を社寺地とした。その典型例として滋賀県粟太郡十里村の集落を初め,畿内の盆地の集落をあげられる。しかし十里村のような計画的集村は理想的な集落形態であり,条里制時代の集落は各地方において必ずしも集村をなしていなかった。
【条里地割の分布】この地割は畿内の奈良盆地・京都盆地・大阪平野・近江平野などの律令国家の核心地に典型的例がみられる。これは律令国家の前身である大和政権が施行したものであろう。また大和政権に匹敵していた強大な局地的政権が生長していた地方にも広域条里地割が行われた。畿内の西では岡山平野や筑紫平野などがあるが,南九州にはみられず,畿内の東では福井平野・尾張平野や関東の前橋平野などがあるが,東北地方の北部にはみられない。また全国の国府が所在した平野に条里地割がみられることは条里制は律令国家の発展と深い関係があったと考えられる。世界における耕地の方格地割の起源は古い。ローマはケンチュリア制を,中国は前350年に秦が阡陌地割を行った。朝鮮半島には漢が置いた帯方郡の南原城郊外や平壌郊外にも阡陌地割がある。
〔参考文献〕米倉二郎『東亜の集落』1961,古今書院
渡辺久雄『条里制の研究』1968,創元社
水野時二『条里制の歴史地理学的研究』1971,大明堂
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