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●条約改正 じょうやくかいせい

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 欧米諸国との不平等条約を対等に改め,法権と税権を回復するにいたった明治政府の一連の外交交渉。江戸幕府が1858年(安政5)に西洋各国と結んだ修好通商条約(安政五カ国条約)は治外法権を認め,関税自主権を失い,片務的な最恵国条款を含む不平等条約であった。その後に結んだ通商条約(計11カ国)と改税約書も引き継いだ明治政府は1869年(明治2)オーストリア=ハンガリー国との条約では,それまでの条約より有利な特権を与えた。同年,外国官(のち外務省)は条約改正の調査を始め,改正草案を作成する。1870年(明治3),沢宣嘉外務卿(初代)は条約に定めた期日(1872年7月1日)まで交渉を待つと外国に通告。

【岩倉使節…1871〜73】岩倉具視外務卿は特命全権大使となり(後任は副島種臣),条約改正の予備的交渉の使命も帯び,最初の訪問国アメリカで具体的な談判に入ったので,全権委任状を取りに大久保利通伊藤博文両副使が本国に往復したが,対米交渉は不調に終わった。以後,歴訪したヨーロッパ諸国には,改正希望の表明にとどめたが,各国とも日本国内でのキリスト教徒迫害を非難し外国人の内地旅行の自由を求めた。

【寺島期…1873〜79】寺島宗則外務卿は内地旅行を認めず,国内産業と税収のためにも税権の回復を先にしアメリカとは1879年(明治12),税権をほぼ回復する約書(吉田-エバーツ条約)を結ぶが,イギリスが同調せず実施をみなかった。当時,イギリス商人ハルトレーのアヘン密輸事件に対するイギリス領事裁判の不当に軽い判決や,横浜入港ドイツ商船ヘスペリア号の検疫拒否が,国民に法権回復を叫ばせ,寺島は退陣した。

【井上期…1879〜87】井上馨外務卿は税権・法権とも一部回復する改正案を示し,イギリス公使の提案で各国合同の予備会議を1882年(明治15)東京で開き,席上で日本の法権に従う外国人に内地を開放する方針を言明した。国内には内地雑居をめぐる議論がおこるが,政府は日本が文明国並みになったのを外国に認識させるため,法典の整備を急ぐとともに,鹿鳴館に代表される欧化政策をとった。初代伊藤内閣でも外務大臣となった井上は,1886〜87年(明治19〜20)の改正会議で,イギリス・ドイツ両国公使の提案により,[1]西洋式の法典をつくり,あらかじめ外国側の承認を受ける,[2]外人判事を任用する,[3]外国人に内地を開放し動産・不動産の所有を認める,という対等条約にはほど遠い改正案をまとめた。顧問フランス人ボアソナードは意見書で現行条約よりも日本に不利とし,谷干城も反対して農商務大臣を辞職した。紀州沖で沈没し邦人全員溺死したノルマントン号事件で,イギリス人船長の裁判は国民の憤激を買ったが,井上案の内容が民間に洩れると屈辱的とし反対運動が高まり,会議を延期し井上は辞職。

【大隈期…1888〜89】大隈重信外相は1888年(明治21)メキシコと対等条約を結んだ。国別に交渉して同意した国と新条約を結ぶ方針で,井上案の外人判事を大審院に限ったが,内容がイギリス=タイムズ紙から日本の新聞に転載されると反対論がおこり,大隈が玄洋社員に襲われ黒田内閣は倒れ,アメリカ・ドイツ・ロシアと調印していたが,改正交渉を中止。

【青木期…1889〜91】青木周蔵外相(山県・松方内閣)は外人法官をやめ,法典論纂を約束せず,まずイギリスと交渉を再開し進展していたが,大津事件の責任を負い辞職。

【榎本期…1891〜92】榎本武揚外相(松方内閣)は調査委員会を設けたが改正交渉には入らず,1892年(明治25)ポルトガルの治外法権を撤廃。

【陸奥期…1892〜96】陸奥宗光外相(伊藤内閣)は青木を駐英公使とし相互対等の条約案で交渉させ,極東でロシアに対抗するイギリスとのあいだに1894年(明治27),日清戦争開始直前に新条約を結んだ。5年後に実施され,外国人の居留地を廃し国内居住を自由にしたが,土地所有は認めず,永代借地権を残した。

【小村期…1908〜11】小村寿太郎外相(桂内閣)は1911年(明治44),関税自主権の完全回復を達成した。〔参考文献〕井上清『条約改正』1955,岩波新書