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●縄文文化 じょうもんぶんか

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 縄文文化とは,日本で最も古い先土器文化につづく文化で,その開始期は,今から約1万年前くらい前のことと考えられている。そして稲作農耕や金属器を指標とする弥生文化が大陸からの流れを受けて成立するのは,前300年のことであるから,8,000年の長きにわたってつづいた文化ということができる。縄文文化の名称は,当時使用されていた土器に縄の文様が多くみられることから,縄文土器という名が与えられ,その土器が使われた時代を縄文(式)時代と呼び,その文化を縄文文化として扱おうとしたことによる。縄文土器を使用する沖積世の文化は年代測定の結果,世界で最古とされる土器を使用した文化である。縄文文化がわが国で独自に始められたものであるのか,またC14(放射性炭素)年代測定が正しく実年代として考えてよいものなのか,まだ多少の問題がないわけではない。しかし近年の大陸におけるC14年代測定結果と,その遺物をみるとき,縄文文化の発生は,東アジアの土器の発生期の一連の流れやひろがりをもったものの一員として出発したものと考えられるようになってきた。

 ヨーロッパの新石器時代には,土器の使用開始,農耕・牧畜の開始が指標となるとされている。土器の存在は,穀類の調理と関連するものとされてきた。しかし,縄文文化は土器はみられるものの,植物性食料と動物性食料ともに,基本的には狩猟・採集経済段階にとどまっていた。縄文時代は新石器時代としてとらえられるものではなく,独自な文化を展開させた時代であったと考えられる。弓矢・磨製石器など,いわゆる新石器時代の遺物がほかにも存在するが,縄文文化と呼んで,この独自な文化を表しているのである。

 縄文文化は,日本列島の全域にわたってみられる。それぞれの地域では特色をもちながら,日本列島全体としては似かよった内容をもち,そのころの朝鮮半島を含めた大陸の文化とは違う独自の文化を生んでいった。大陸から切りはなされている日本に,縄文文化は狩猟・採集の経済基盤のもとに独自に展開する。8,000年以上の長さを有する縄文時代は,主として縄文土器の研究から五つから六つの時期に分けて考えられる。草創期・早期・前期・中期・後期,そして晩期の各時期は,1,000〜2,000年の長さをそれぞれに有する。

【土器】縄文時代の土器は,深鉢が基本的な形態となる。早期までの土器は尖底で,前期末には浅鉢が出現し,後期後半にはさらに多くの器種を増す。土器で煮焚きをすることで,植物性食料の有用となる範囲が大きくひろまった。縄文土器は栽培植物の調理ではなく,採集動植物調理に役立ったものであった。

【石器・骨角器等】縄文文化の道具は,磨製石器や釣針などの新しい遺物の出土が注目される。道具の製作に磨製の手法が多用されることも,この文化の特徴であろう。弓矢の使用とともに,先土器時代にはみられない道具が,縄文文化にはその当初から存在し,発達していった。こうした傾向は,東アジアに共通してみられる中石器文化〜新石器文化のそれに共通してみられ,その東端の日本の縄文文化もその一環のものとして始まったことがわかる。しかし,その後の展開は,東アジアの流れとは異なったものとなり,石器のなかには日本列島の東から西へと伝っていくものも多くみられるのである。骨角器に示される水産資源への働きかけは多様で,縄文時代の遺跡の代表的な存在でもある貝塚は,その結果を残す確かなあかしでもある。近年明らかになってきた木製容器の種類の多様さは,掬い具や大皿をはじめとして調理具や食器の充実した姿を知らせてくれた。

【住居と集落】縄文文化は,定住集落をもつ周年的な生活を営む人々の文化であった。打製石斧は本来土掘り具として用いられたものであるが,植物資源の採取に使われたり,竪穴住居の掘鑿にあてられたものであったと考えられる。当時は竪穴住居が一般的であり,用材は樹木を磨製石斧で加工した。磨製石斧は村づくりの際に森林を切り開いたり,木材の加工に活躍した。住居は早期段階では2〜3戸,中期段階では10戸を上まわるものであったらしい。集落の形態は,立地によってまちまちであるが,広さが十分に取れる所では環状に竪穴がめぐることが多い。

【資源開発】集落の立地する場所によって,周辺の資源に差が生ずる。縄文文化期の生業は,植物採集・狩猟・漁撈活動を組み立ててのくらしであったから,食生活はそれぞれの集落ごとに独立しているもののバラエティーに富んだものである。植物資源は堅果類などを石皿・磨石で製粉して食することが通常であった。動物遺体のなかでは,シカ・イノシシが出土獣骨のほとんどの割合を占めており,魚貝類も内湾性のものから外洋性のものにまで,捕獲の手がひろげられている。これらの資源は交換されることも十分考えられる。また石器の石材である黒曜石・頁岩・サヌカイト・チャートなどは,各集落の周辺に存在するものでもなく,当然,産地との直接・間接の交換が行われたものだろう。集落は決して独立した存在であったわけではなかったのである。

【集落の維持】集落ごとには,集団の維持のためのとりきめが必要となる。定住生活に伴って死者をどう葬るか,また構成員の集落内における社会的位置をどう決めるかなど,集落の継続のためには一定の決まりをつくっておく必要がある。埋葬法や抜歯の風習のなかに,それを知る手がかりがひそんでいる。

 また環状列石や配石群が各地に現われるのは,共同祭祀を行っての集団運営が存在したことをうかがわせる。土偶土版は,受胎の護符・傷病治癒の呪符・豊穣の祈り像などの諸説がある。さらに狩猟・漁撈にかかわる儀礼としていくつかの実例が確認されている。北海道東釧路貝塚では,イルカ頭蓋を放射状に並べた例があり,山梨県金生遺跡の土拡からはイノシシの幼獣骨が火を受けて収納されている例が示された。また福島県大畑貝塚では,アワビ送りの例が報告されている。これらは,縄文文化の生業活動が社会的に秩序づけられたものであったことを示していると考えることができる。

 華しく飾られた縄文土器は世界の狩猟・採集民の土器のなかでもきわめて独創的なものであるし,その出土量の多さは世界史的にみて例外である。また縄文文化の村も,生産経済以前の村としては格別な大きさであろう。それは恵まれた海の幸,山の幸によるものであった。縄文文化は狩猟と採集の経済段階にあったものとしては最も進んだ内容であった。

【装飾】縄文文化の遺物のなかでは,クシ・ペンダント・耳飾りなどが知られているが,後期段階以降にはかなり一般的なものとなっていたことが指摘できる。とくにクシは漆でかためられた頭部と歯からなるつくりのものが,多数出土することがわかってきた。岩手県萪内遺跡や埼玉県寿能遺跡からのまとまった出土は,集落内の少数の人々が装飾していたとする従来の考え方を改めねばならなくなってきている。

 縄文文化は日本列島で独自に展開した文化であることは前に述べたとおりであるが,大陸との交渉はなかったわけではない。植物学者によればウルシノキは日本原産のものではなく大陸から輸入された植物であるということである。福井県鳥浜貝塚は前期段階の漆製品を数多く出土した遺跡であるが,ヒョウタン・リョクトウ・ゴボウなどの栽培植物を出土したことでも知られる遺跡である。ウルシノキや漆工技術も含めて,大陸から輸入されて栽培されたものとみるべきであろう。こうした植物が縄文時代の主たる食料資源とならなかったものであることから,縄文時代の経済活動を大きく変えることはなかったとすることになろうが,文化伝播が,縄文時代のなかでもわずかずつでもみられたことは注目しておかねばならない。ケツ※注1※状耳飾なども中国からの女物の伝播を物語るものであり,大陸とは異なった展開をみせた縄文文化期の,文化交流を知る手がかりにもなっている。縄文文化は,弥生文化の成立を可能にするほどに発達していたといえる。

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