50音順    検 索

●承平・天慶の乱 じょうへい・てんぎょうのらん

アジア 日本 AD 

 日本の朝廷の諸国支配は,承平・天慶年間(931〜946),東国の平将門らの軍勢や藤原純友の率いる瀬戸内の海賊などにより解体の危機に瀕した。当時,朝廷は国司が律令の規定に従わずに徴税することを容認しており,それにより任国での収奪を強めた国司と,それに反抗する郡司百姓との対立は激化していた。将門は,鎮守府将軍や常陸・上総・下総などの国司を出した平氏に属したが,935年(承平5)平国香や前常陸大掾源護らと合戦し,その後も平貞盛・良兼との抗争をつづけ,護や貞盛により行為暴虐だとして平安京朝廷に訴えられた。938年(承平5,天慶1),武蔵国で権守興世王介源経基と足立郡司武蔵武芝とが対立したとき,将門は調停しようとしたが,経基はこれを将門謀反として平安京朝廷に訴えた。そのころ将門は,常陸国司に反抗した藤原玄明をかくまって,常陸介藤原維筏とも対立,常陸国を攻め印鎰を奪取,元慶2年末には下野・上野にも進軍して国司を追放,この3カ国のほか上総・下総・安房・相模・伊豆諸国の国司を補任,自らは新皇と称した。ここに東国は,平安京朝廷の支配から離れた。しかもこのとき,伊予国日振島を本拠とする純友も平安京朝廷に反抗して兵を挙げた。瀬戸内海は周辺諸国と平安京を結ぶ交通路で,官米を乗せた船を襲う者が出没,平安京朝廷はこれを海賊と呼んで鎮圧につとめていた。936年には〈南海道賊船〉が官物を奪ったという記録があるが,その首領は純友だったらしい。伊予守紀淑人はこれを一時懐柔したが,939年純友は乱に踏み切ったのである。将門は940年(天慶3)貞盛・藤原秀郷との戦いで死に,純友は讃岐国・伊予国を襲い備前・備後の兵船と戦って,翌年大宰府を攻めた後伊予で滅んだが,その後も瀬戸内海賊の活動はつづいた。