●浄土宗 じょうどしゅう
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鎌倉時代に法然の開いた日本仏教の一宗派。古くは善導宗・念仏宗・一向専修宗なども呼ばれ,親鸞の浄土真宗,一遍の時宗はこの系統に属する。【成立】浄土宗という名称を使用した先例は中国などの仏教書にあるが,これを一つの独立した宗派の意味に用いたのは法然が最初である。彼は比叡山で天台宗の教義はもとより広く仏教の教理を学び,自己の救いを確信できる教えを得えようと長い求道生活をつづけた。やがて源信の『往生要集』に導かれ,中国唐代の浄土教を大成した善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』(『観無量寿経』の註釈書)を読むうちに自分のような無知の身も“専修念仏(せんじゅねんぶつ)”によって救われるという強い確信を抱いた。この専修念仏とは,阿弥陀仏が人間救済のために立てた四十八願のなかの第十八願を根拠に,ひたすら念仏する(「南無阿弥陀仏」と唱える)ならば,必ずその仏の浄土に往生できるとする教えである。この法然の宗教的体験は1175年(承安5),43歳のことといわれ,浄土宗の開宗はこのときとされている。専修念仏に帰した法然は,以後洛東の吉永(よしみず・現在の知恩院付近)に住居を定め,ここを中心に布教につとめた。彼の周囲には道俗・貴賤を問わず多くの信者が集まり,社会的に注目されていくと同時に,教団としての浄土宗が形成されていった。1198年(建久9)には九条兼実の要請が機縁となって主著『選択(せんちゃく)本願念仏集』(略して『選択集』という)1巻を著し,このなかで浄土宗のよりどころとする経論として“三経一論”すなわち『浄土三部経』(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)と世親の『往生論』を重視しつつ,善導の浄土教解釈をふまえて,浄土宗教義の基本を組み立てた。法然の教えは当時の社会的混乱におびえた人々に受け入れられ,京都やその周辺ばかりでなく,北陸や東海にまで広がっていった。その隆盛に旧仏教の諸宗は〈八宗まさに滅せんとす〉(『興福寺奏状』)るほどの危機感を抱き,専修念仏に対する圧迫に乗り出したため,法然以下おもな弟子たちは流罪に処せられた。
【歴史】法然の門下のうち,その教えを受けついで一派を形成したものは聖光(しょうこう)・証空・隆寛・幸西・長西・親鸞の六人であるが,その他信空・源智・湛空なども門下のなかでは重きをなしていた。これら門下のなかで,その系統が教団として発展し,今日まで続いているのは聖光の浄土宗・証空の西山浄土宗・親鸞の浄土真宗のみである。聖光は浄土宗の第二代とされ,始め比叡山で修行したが,のちに法然の門に転じ,北九州を中心に念仏を広めた。その弟子良忠は教学の確立と余勢の拡大につとめ,主として関東一円で活発な布教活動にあたり,晩年には鎌倉に進出して北條朝直の帰依を得るなど,浄土宗発展の基礎をきずいた。その門下には俊才が多かったが六派に分かれ,なかでも寂慧(じゃくえ)の白旗派が浄土宗の正統を継いだ。室町時代にこの系統から出た聖冏(しょうげい)は,儒教や神道など広く諸学を学び,浄土教学を体系立てるとともに,伝法の規則を定めるなど教団制度を確立し,浄土宗を名実ともに独立した宗派に高めた。この後江戸時代に入ると,三河以来徳川家の帰依していた浄土宗は急速に発展した。とくに増上寺の存応と知恩院の尊照とは東西呼応して宗門の統制をはかるとともに,幕府の宗教政策を巧みに利用しながら宗門勢力の拡大をはかった。その結果,寺院経済は安定したが,他方僧風の堕落をもたらした。明治維新後は廃仏毀釈の打撃をこうむったが,教団の近代化と学問の興隆につとめ,大正から昭和にかけて,望月信亨・荻原雲来ら多数の学僧を輩出し,椎尾弁匡・山崎弁栄らが新しい信仰運動をおこし,宗門の活性にあたると同時に社会の注目を集めた。
〔参考文献〕伊藤唯真『浄土宗の成立と展開』1981,吉川弘文館
玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』1980,山喜房
藤井正雄編『浄土宗の諸問題』1978,雄山閣