●聖徳太子 しょうとくたいし
アジア 日本 AD574
574〜612(敏達3〜推古30)推古朝の皇太子。用明天皇の第二皇子。母は穴穂部間人王。名は厩戸・豊聡耳・八耳・上宮など古代の諸文献に見えるだけでも、大別11種約20余りを数えるが、太子の子に馬屋古女王がいるので、実名はおそらく厩戸王と思われる。このように、聖徳太子については、その史料・文献の豊富さにもかかわらず、太子没後間もないころから、太子周辺の人々のあいだに太子崇敬の念が生じ、それがしだいに高まって一種の信仰となり、ついには720年(養老4)に完成したわが国最初の正史である『日本書紀』のなかに、すでに太子信仰にもとづいた記述がなされているため、太子の伝記は早くから伝説化の方向を辿ることになった。それゆえ、聖徳太子を研究する者にとって、太子の真の事績を識別することはきわめて困難な問題になっている。一般的な聖徳太子の理解では、太子は、593年(推古元)4月に、叔母である推古天皇の皇太子となり、摂政として内外の政治の整備に携わった人物で、その主な事績としては、603年(推古11)に冠位十二階を定め、翌年には憲法十七条を制定し、607年に小野妹子を隋へ派遣して国交を開き、大陸文化の導入につとめ、さらに620年(推古28)には天皇記・国記など国史の編纂を行い、またとくに仏教興隆に尽力し、三経義疏を著し、法隆寺・四天王寺を建立するなど多くの事績を残した人物とされている。
【聖徳太子研究】こうした一般的理解のなかにも、憲法十七条の制定や三経義疏の撰述、法隆寺の建立などは、太子の事績とする確証がなく、研究者のなかには疑問視する者がかなりある。かかる傾向から、最近では、聖徳太子に関する諸史料を総合的に検討し、その中から信憑性の高い史料を確定し、さらには聖徳太子の研究も、漠然とした研究ではなく、“人間聖徳太子の研究”と“太子信仰の研究”とに分けて研究する傾向が顕著になった。そのため『日本書紀』の太子記事や『上宮聖徳法王帝説』をはじめとする諸太子伝および金石文の史料批判はきわめて厳密に行われるようになった。その結果、最近の太子研究では、太子を聖人として扱うよりも政治家として、あるいは宗教人もしくは思想家として捉える傾向が強くなっている。なお太子関係史料のなかから不確実なものをすべて取り除き、純客観的な太子像をまとめてみると、次のようなものとなる。すなわち、聖徳太子(厩戸王)の人物像は、かなり優秀な頭脳の持ち主で、仁徳の高い皇太子ではあるが、決して『日本書紀』に見られるような聖人像ではない。その生涯は、574年(敏達3)生まれで、622年(推古30)2月22日に49歳で斑鳩宮に崩じている。20歳の時に推古天皇の皇太子となり、政治にも参画し、叔父であり時の大臣であった蘇我馬子とともに協力して、推古朝廷での政治の実をあげ、後世の律令制導入の方向を志向する立場にあった為政者であったと考えられる。また政治の面のみならず、仏教興隆や文化的事業にも力を注ぎ、種々功績を残した人物である。その生涯の功業として高く評価されるものには、冠位十二階の制定や遣隋使の派遣、朝儀の整備、仏教興隆(四天王寺の造営や勝鬘経の講説など)、国史の編纂などがあげられる。以上のような太子像の上に、太子信仰の高まりに伴い種々の伝承・逸話が加えられ、すでに『日本書紀』段階で厩戸開胎説話や片岡山遊行説話が見られ、また天平期には、太子の詩経に関連して、三経義疏太子真撰説が導かれ、また奈良時代後半の鑑真和上来朝に伴う唐仏教の影響から、法華経将来説話や太子の慧思禅師後身説などが生じている。そして平安時代に入ってからの太子信仰の隆盛化に伴い、太子を観音菩薩の化身と考えるようになり、太子信仰=観音信仰の様相となる。こうした太子信仰の発展は、時代を経るに従って一層盛んになり、それとともに太子の伝記も奇異なものがつくられるようになっていった。とくに鎌倉時代以降の太子信仰は民衆信仰としての色彩を一段と強めていったことは注目される。
〔参考文献〕田村圓澄『聖徳太子』1964、中央公論社
坂本太郎『聖徳太子』1979、吉川弘文館
田中嗣人『聖徳太子信仰の成立』1984、吉川弘文館