●尚家 しょうけ
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琉球王国の国王および王族のこと。尚氏ともいい,第一尚氏・第二尚氏の区別がある。【第一尚氏】沖縄に北山(ほくざん・山北)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん・山南)と呼ばれる三つの小国家が鼎立していた時代(14〜15世紀初)の末期,佐敷(さしき)の地から兵を挙げた尚思紹(しょうししょう),尚巴志(しょうはし)父子は,1406年に中山の覇権を手に入れるやただちに統一王朝の樹立にとりかかった。1416年に北山,1429年に南山を倒してこれを実現。首里を拠点とする統一王朝(第一尚氏王朝)が出現することになった(琉球王国の成立)。第一尚氏は尚思紹からかぞえて7代60年余続いたが,1469年金丸を推す勢力のクーデタによって崩壊,翌年付けで金丸が即位して尚円(しょうえん)と号し,新しい統一王朝を開いた(第二尚氏王朝)。
【第二尚氏】第二尚氏は19代,400年余続いたが,その間さまざまな紆余曲折があった。3代尚真(しょうしん・在位1477〜1526)のころには王国制度が整備・強化され全盛期を迎えた。7代尚寧(しょうねい・在位1589〜1620)の1609年には島津家久の派した3千の兵の侵攻を受け,その従属下に置かれるようになった(島津侵入事件)。13代尚敬(しょうけい・在位1713〜1751)のころには幾多の人材が輩出し,文運隆盛期を迎えた。そして19代尚泰(しょうたい・在位1848〜1879)のとき,明治政府の方策により,まず1872年,琉球王国が「琉球藩」に,尚泰は「藩王」にそれぞれ改称されるようになり,1879年には「琉球藩」が廃されて「沖縄県」が設置され,「藩王」尚泰は王宮首里城を明け渡して,第二尚氏の歴史は終止符を打たれた(琉球処分)。尚泰は侯爵に列せられ,東京に屋敷を賜って住むようになった。
【特徴・性格】尚姓は第一尚氏尚巴志の代に,中国皇帝より授かったものだといわれる。この由来が示すように,尚氏と中国との関係は代々緊密であった。国王の地位に就くと,皇帝の名代として派遣される使節団=冊封使(さくほうし)の手で皇帝名による即位式(冊封)が行われたほか,定期に皇帝へ貢物を呈する(進貢あるいは朝貢)などの儀礼的な外交関係をもった。また,1609年の島津侵入事件後は,将軍の代替りごとに慶賀使を,国王の即位ごとに謝恩使を江戸に派遣する慣例も生まれた(両使を総称して「江戸上り」という)。このことから,中国皇帝および日本将軍の二者に臣属するとして「日支両属」という用語も生まれた。国王は対外的には「琉球圏中山王」と称したが,琉球では「世の主」「ティダ(太陽)」,あるいは「御主加那志(うしゅがなし)」と呼ばれ畏敬された。聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とする神女組織も祭祀の面で国王の翼賛を行うべく16世紀にはすでに整備されていた。国王はいうまでもなく王国行政組織(首里正府)の頂点にあり,王宮たる首里城を居城として版図に君臨する存在であった。1501年には王家の陵墓として玉御殿(たまうどうん・玉陵)が造営され,歴代の国王およびその近親者が同陵に安葬されるようになった。なお,近世期には,国王の直系以外に対しては「向(しょう)姓」を用い区別した。
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