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●商業革命 しょうぎょうかくめい

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 15世紀末における「地理上の発見」−1492年のコロンブスによる新大陸の発見と,1498年のヴァスコ=ダ=ガマによる新航路の発見−によってもたらされたヨーロッパの国際的商業体系における一大変革をいう。

【古いヨーロッパ商業体系】ゲルマン民族の移動やローマ帝国の崩壊ののち一時衰退したヨーロッパ商業は,11世紀ころから復活したが(いわゆる「商業の復活」),そのとき国際商業の中心地となったのは,やがてハンザ商人が活躍することになる北海・バルト海沿岸地域の都市と北イタリア諸都市であった。なかでもヴェネツィアやジェノヴァなどの北イタリア都市は,アラビア商人によって地中海東岸にもたらされる各種の香料・果実・染料・織物など東方物産を独占的に輸入して,シャンパーニュやブルージュなど北フランス・低地地方の大市に運んだ。それらは諸国の商人によってヨーロッパ各地に分配されたため,北イタリア諸都市は大いに繁栄した。ところで東方物産のなかで最も重要な商品は胡椒で,これへの対貨としてヨーロッパから輸出されたのは,鉱産物・毛織物・穀物,とくに銀である。東方貿易は,象徴的にいえば,東インドの胡椒とヨーロッパの銀の交換貿易であった。そのヨーロッパからの銀の主要な産地は南ドイツで,南ドイツ銀山の開発を足場にやがて南ドイツ商人が台頭し,フッガー・ウェルザーなどの大商人が大きな活躍を見せ,ヴェネツィアにはドイツ商人の商館が置かれ,またライン流域も経済的に繁栄した。ところが15世紀末の「地理上の発見」が,このようなヨーロッパ国際商業の構造に大きな変化をもたらした。

【新しいヨーロッパ商業体系】[1]ダ=ガマによる喜望峰を回る新たな東インド航路の発見は,これまで地中海を経由していた東インド貿易路を大西洋側に移動させることになったため,北イタリア諸都市は貿易路から大きくはずれた。またポルトガル商人が東インドから直接もたらす安価な東方物産の流入により,東方貿易による独占的繁栄を誇った北イタリア諸都市の地位は大いに傾き,それに代わってポルトガル商人が東インド貿易の主役となり,その首都リスボンがヴェネツィアの地位にとって代わった。それにつれて南ドイツ商人もその商館をヴェネツィアからリスボンに移し,ポルトガル商人と手を結んだ。しかしポルトガルには東方物産と交換すべき産物がなく,政治的にも一時スペインに併合され,さらにスペインから独立したオランダが東インド貿易に進出するなどのため,ポルトガルの覇権はやがて失われた。[2]他方コロンブスの新大陸発見後スペインが新大陸に進出し,メキシコやペルーを中心に古い原住民の文化を破壊しながら植民地支配を広げた。とくに注目されるのはその鉱山とくに銀山の開発で,新大陸における銀の産出高は,16世紀後半に世界総産出高の80〜90%を占め,しかもその生産が原住民に対する奴隷的強制労働によったため生産コストがわずかですみ,きわめて安価であった。この安価な新大陸産銀が多量にスペインに流入したため,南ドイツ産の銀が大きな打撃を受けた。南ドイツ商人の繁栄が大きく崩れたばかりでなく,スペインに新大陸向け物産の供給を十分に行う力がなかったため,多量の銀が国外に流出して銀の価値を低下させ,ヨーロッパ諸国で「価格革命」が起こったほどであった。そして今や新大陸産銀が南ドイツ産銀に代わって東インド貿易におけるヨーロッパからの対貨としての役割を担うことになり,東インド貿易と新大陸貿易とは,銀という商品を通して不可分裡に結びつくことになった。しかも新大陸への輸出品の多くは工業製品で,とくに毛織物が重要であり,これも象徴的にいえば,新大陸貿易はヨーロッパの毛織物と新大陸の銀との交換貿易であった。このようにしてヨーロッパは毛織物との交換で新大陸の銀を手に入れ,その銀を素材として東インドから胡椒を獲得するという新たな商業体系をもった。[3]ヨーロッパの新しい商業体系の成立は,ヨーロッパ経済が,東インドと新大陸を含めた世界大規模の経済の一環としての位置を占めるに至ったことを示すとともに,この商業体系における主役が,やがてオランダさらにイギリスへと交替していくことが,ヨーロッパ諸国における毛織物生産を軸とした初期資本主義の展開と深くかかわるものであることをも教えている。

〔参考文献〕大塚久雄『近代欧州経済史序説(上)』1944,日本評論社(『大塚久雄著作集』1969〜1970,岩波書店,第2巻収録)

今井登志喜『近世における繁栄中心の移動』1950,誠文堂新光社(『都市の発達史』と改題再刊,1980)