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●承久の乱 じょうきゅうのらん

アジア 日本 AD1221 鎌倉時代

 1221年(承久3)におこった,鎌倉幕府と朝廷の争乱。三代将軍実朝が暗殺された後,幕府は執権北条義時が実質的な中心となっていたが,空位となった将軍職に後鳥羽上皇の皇子を迎えようとし,院は幕府の要請を内約しながらも結局はそれを解消した。さらに,後鳥羽上皇の寵妃(ちょうき)伊賀局の所領摂津国長江・倉橋両荘の地頭職改補問題がかかわり,幕府と朝廷との対立は決定的となったのである。朝廷でも,幕府内の有力御家人の反乱などを見て幕府内部の内紛に乗じて幕府を顛覆させ,公家勢力の挽回をはかる絶好の機会と考え,後鳥羽上皇を中心として討幕の兵を挙げるにいたった。

 1221年5月,延暦寺・東寺・仁和寺などで北条義時調伏の修法がひそかに行われたという情報を得た上皇は,いよいよ討幕の時がきたと判断した。そして,洛南鳥羽離宮内の城南寺の流鏑馬(やぶさめ)ぞろえと称して,畿内・近国の兵を召集した。これが承久の乱の勃発となった。『承久記』によれば,大和・山城・近江など,畿内・近国14カ国から1,700余騎が馳せ参じたといわれ,そこで義時追討の院宣が下された。後鳥羽上皇らは,ひとたび院宣が下されれば,その命に従わぬ者はないと考えていた。その報に接したいわゆる「尼将軍」政子は,御家人を召集して演説をして,上皇との戦いを決意するに至ったのである。このとき,幕府は大江広元の建策にしたがって,短期決戦の方針をとっている。北条義時は,遠江以東の御家人に奉書を発し,その結果おびただしい数の幕府軍が組織された。5月22日に,京都へ向けて鎌倉を出発した幕府軍は,北条時房・泰時ら率いる東海道軍が10万,武田信光,結城朝光ら率いる東山道軍が5万,北条朝時・結城朝広ら率いる北陸道軍が4万,計19万にものぼったのである。これに対して朝廷軍は,平将門の乱のときの例にならって,藤原秀澄らを美濃に遣わして不破の関をおさえさせた程度で,これといった対応をしていない。6月5日,濃尾国境付近で朝廷軍と幕府軍(東海道軍・東山道軍)の戦いがあったが,小競り合い程度で,朝廷軍の大半はほとんど戦わずに敗走してしまい,幕府軍はそのまま進み,15日には京都に入った。一方,北陸道軍は6月8日に越中・加賀の国境砺波山(となみやま)で戦ったが,こちらも幕府軍の圧倒的勝利で,朝廷軍は完膚なきまでに打ちのめされたのである。

 幕府軍が京都に乱入したときには上皇らは何らなす術もなく,御所にとじこもり,苦しまぎれに義時追討の宣旨を取り消し,討幕計画は謀臣のしわざであり,自分は何ら関知していないということを申し出ている。朝廷方の主な武将はそのころにはそれぞれ自害し,また追捕(ついぶ)・斬首された。しかし,義時は争乱の首謀者が後鳥羽上皇であったことを重視し,きびしい処分で臨む方針を立て,その結果,後鳥羽上皇は隠岐に,順徳上皇は佐渡に,土御門上皇は土佐にそれぞれ流され,これら三上皇のほかに,雅成(まさなり)親王は但馬,頼仁親王は備前に配流されたのである。

 承久の乱の後,幕府は朝廷監視のために,新たに六波羅探題を設置した。これによって,幕府の力が大きく西国にも伸びることになったのである。また,朝廷方公家・武士の所領3,000余カ所を没収し,これを幕府軍で活躍した武士たちに恩賞として与えたのである。このとき与えられた地頭職は,それまでの地頭(本補地頭)と区別して新補地頭の名で呼ばれた。つまり,旧来の慣習がある場合にはこれに従わせ,先例のない場合には,11町に1町の給田畠と段別5升の加徴米を与えるという新補率法にもとづく地頭のことである。この新補地頭の設置は,それまでの荘園制に寄生する形となっていた地頭制度を飛躍的に発展させる契機となり,東国に本領をもつ御家人が,関西・中国・九州方面へ進出する要因となった。また,乱後,越後・越中・能登・加賀・信濃・駿河・伊豆・伊勢・丹波・美作・大隅の国々が北条一門の守護によって固められることになった。これらによって,幕府権力は著しく強化され,公家政権は急速に衰退したのである。