●城下町 じょうかまち
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城下町とは,封建領主が恒常的に居住する城郭を中心にして成立した「城下」,すなわち土屋敷群や寺院とともに存在する町屋群のうち,町人の居住する「町」のみを本来さしていた。しかし今日では,城内・侍屋敷群・町々などから成る全都市域をさすようになり,「城下」といえば,城地を除いたものをさしている。【城下町の成立】13世紀以降,農村に在住して荘務や農業経営にあたっていた鎌倉武士や土豪の間に,土地拡張のための争いがおこると,館付近の山腹などに臨時に必要最小限の堀切や柵を所々に設けた山城を構えるようになった。南北朝動乱後は,山城に削平地を設け曲輪を構え,やや長期の籠城に耐えるようにし,また本城陥落に備えて,山奥などに詰(つめ)の城をつくることもあった。楠氏の赤坂城やその背後の千早城はその例である。しかし恒常的居住は山麓の館で,館内には家人や奴婢が住み,その周囲には家子郎党の各屋敷と,一般農民や工匠が付近にまばらに集住する程度の集落で,町とはいえなかった。定期市の市場が発達して商工業者も若干住む市町は離れており,また意識的に分離されていた。しかし,守護大名は群小の地頭や土豪を組織した国人領主を傘下に入れて勢力を増し,国衙の機能を吸収するに便利な平野部の要地に守護所をつくり,ある程度の家臣屋敷を周辺に構えさせ,市町を吸収したので「守護町」ができた。有力国人領主も恒常的居城としての山城や,周辺に土塁や堀などのささやかな防禦施設を施し城館の城下に市町をひき寄せた。ここに城下町の原型ができる。
【戦国時代の城下町】応仁の乱以後,下剋上の風潮と同族間の対立などに悩む大名や有力国人領主は,恒常的軍事要害としての築城により留意し,より多くの家臣を城下に在番させようとした。しかし兵農分離は進まず,城下も町人にも防備させたりしなければならぬので,城下の周辺に自然の川や海や藪を利用したり,堀や土塁を廻らす「総構(そうがまえ)」=防禦の第一線を設けた。戦国後期の大名は領国経済組織を総動員するため,城下の御用商工業を領国内の同業者の統率者ともし,また多少距離のある「宿(しゅく)」や港町・門前町をも城下の町として利用した。六角氏の近江観音寺城と石寺新市や,上杉謙信の越後春日山城と港町直江津などがその例である。新興の大名織田信長とその武将らは,兵農分離を進めつつあり,急激に新城下町を発展させるため,楽市令を徹底的に利用した。
【近世の城下町】豊臣秀吉は石高制・兵農分離を徹底させ,身分制も打ち立てた。特に海岸で水陸交通の便のよい台地に,濠や石垣・白壁の塀などで人工的要害とした大坂城を築き,また京都を改造し,聚楽第と御所を中心に身分的居住区を定め,寺院を集中した寺町や,「御土居」という総構を構えた。これが近世城下町のモデルとなり,交通要地での大名権力を示す近世的築城や計画的城下町の建設が始まった。戦国時代多かった支城は破却されていき,家臣団は城下に集住した。武士の必要に応ずる商工業者を集住させるため,楽市楽座や地子免除などの都市への特権が与えられた。しかし身分制は居住区域別に貫徹し,城が政庁として拡大され,城下も拡大すると,総構も16世紀初頭に消えた。城下の市商業も恒常的店舗商業となり,問屋・仲買・小売の別も生まれ,こうした町人の需要をみたすための商工業者・交通運輸業者も集住した。こうした町方の司法行政担当専任の町奉行も設置され,城下町は17世紀から18世紀初めにかけて発展する。在方商業を抑止し,領国中央市場として発展した城下町も,その後の藩財政の窮乏,在郷町・在郷商人の発達などの流通機構の変化とともに停滞あるいは衰退した。
〔参考文献〕豊田武『封建都市』1952,岩波書店
中部よし子『城下町』1978,柳原書店
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